伊達氏の置賜支配

1.伊達氏の登場

伊達氏は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘の出生と伝えられています。鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西は、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊佐あるいは中村に変わり伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが最初とされています。南北朝時代の伊達行朝の代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は式評定衆となっています。建武2年(1335)に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行宗も従い、足利方と戦いました。

2.置賜への進出

伊達宗遠の代には北朝方に降伏し、宗遠は出羽国長井郡を攻め、長井氏を滅ぼして領有とします。宗遠の子伊達政宗の時代には鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、満兼や会津の蘆名満盛と争い、政宗は応永9年(1402)までに3度にわたり鎌倉府に反旗を翻しています(伊達政宗の乱)。

斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はさらに形式上その配下となります。また幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると伊達氏は幕府に接近して京都扶持衆となり、応永20年(1413)の応永の乱では鎌倉を牽制し(伊達松犬丸の乱)、永享10年(1438)の永享の乱では幕府より鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、南北朝時代に南朝方であった伊達氏は幕府との接近によって、その地位と勢力を高めていったのです。

伊達植宗は陸奥守護の地位を得ると、天文5年(1536)に分国法の塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めます。しかし、強引な植宗のやり方に不満を示す家臣の一部は、嫡男・伊達晴宗を擁立して植宗の追放を図ります。こうして植宗・晴宗父子の間で天文の乱が勃発します。乱は晴宗方の勝利に終わり、天文17年(1548)、将軍足利義輝の命によって、晴宗が家督を継ぎ米沢へ移り、植宗は丸森城に隠居となります。

伊達晴宗は、弘治元年(1555)に奥州探題に就任します。顕著な活躍はなかったが、晴宗に批判的であった懸田義宗父子を滅ぼし、奥州諸侯の二階堂盛義、岩城親隆、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗に養子に入れ、阿南姫(二階堂盛義室)、女子(伊達実元室)、女子(小梁川盛宗室)、彦姫(芦名盛興室)、女子(佐竹義重室)を輿入れさせるなど結束強化を図ります。

しかし、中野宗時はじめ7人の家老衆に特権を与えたため守護権が弱体します。永禄7年(1564)次男伊達輝宗に伊達家の家督を譲って隠居したが、実権は依然として伊達晴宗と中野宗時らが保持しました。

伊達輝宗は伊達晴宗の次男として生まれるが、長兄の岩城親隆は母方の祖父岩城重隆の養子となったため次男伊達輝宗が伊達家の家督を相続します。家中の実権を握る中野宗時、牧野久仲父子に対し、元亀元年(1570)輝宗は、中野宗時、牧野久仲の討伐を断行します。この際、非協力的だった小梁川盛宗、白石宗利、宮内宗忠らを処罰し、鬼庭良直や中野宗時の家臣遠藤基信を登用しました。天正3年(1575)、遠藤基信に命じて織田信長に鷹を贈り、北条氏政、柴田勝家と頻繁に書簡、進物をやりとりして友好関係を構築するなど、外交面に力を注ぎます。天正9年(1581)、新発田重家が長尾景勝に叛旗を翻すと、伊達輝宗は芦名盛隆とともに新発田重家を支援し、柴田勝家とも連携して北越後国への介入を続けました。伊具郡では、叔父亘理元宗が指揮を執り、相馬盛胤、相馬義胤父子と対抗したが劣勢に立たされます。天正10年(1582)、小斎城主佐藤為信を調略し、丸森城を奪還後相馬盛胤と和議を結んだ天正12年(1584)に伊達家の家督を伊達政宗に譲り隠居します。

3.政宗の活躍

天正13年(1585)、伊達政宗が小浜城主大内定綱、二本松城主畠山義継を攻略、大内定綱は芦名盛氏のもとに落延び、畠山義継は伊達政宗と和議を結んだが所領問題から輝宗は畠山義継に謀殺されます。その後の政宗は、強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大となりました。

しかし、これは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉に服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領および田村郡72万石のみを安堵されたのです。

その後、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに伊達郡など旧領6郡を没収されて58万石に減封され、米沢城から岩出山城(現・大崎市岩出山)へ移ることになります。