舘山城の構造Ⅰ

1.はじめに

舘山城は、長峰山丘陵から張り出す舌状先端部に立地します。地元では「城山」と称され、むかしから伊達氏の居城とされてきた所です。丘陵東端の発電施設は、大正8年に設営された舘山発電所であり、トンネル工法で導水管を接続していることで、城への影響が少なくほぼ当時の姿で残存しているのが特徴です。

舘山城が地域文献に現れるのは、藩制時代に編集された「米沢事跡考」が最初となります。元文6年(1736)に山田近房、千葉篤胤が、米沢の歴史・名所・旧跡・伝承等をまとめたもので、伊達氏に係わる居館跡についても記載されています。この中で初めて「舘山城」の呼称が登場し、概ね伊達氏の居城跡とする考え方を示しています。こうした地誌類は、藩学者によって編纂されたものであり、他に「米沢鹿ノ子」宝暦頃(1751~)、「米沢里人談」享和元年(1801)、「鶴城地名選」文化元年(1804)が知られています。舘山城についての記述については概ね「米沢事跡考」を踏襲した内容となっています。

同様の地誌類は全国各地に残されており、隣県会津地域にも「会津風土記・会津鑑・会津旧雑考・檜原物語」等といった会津の歴史文化に係わる貴重な地誌類が存在します。特に、『会津風土記』は会津藩主、保科正之の命により編纂された藩撰地誌で、寛文6年(1666)に完成し、近世における地誌編纂の始まりと評価されています。

ここで地誌類の信憑性についてはあえて触れませんが、文献や記録に残らない重要な情報が数多く含まれていることも事実です。

(1)舘山城の研究

舘山城についての研究について述べておきます。郷土史研究や歴史研究が盛んになった昭和20年~昭和30年代頃に、中村忠雄・小林清治・三原良吉・中沢千代松・伊佐早謙・高橋堅治氏らの研究として舘山城や米沢城を対象とした論文等が発表されています。彼らは前述の地誌類や伊達家の正史「伊達天正日記」・「伊達治家記録」などを参考に分析したものであり、伊達氏の居城について推論しています。内容については割愛しますが、考え方を列挙すれば下記の通りとなります。

(1)舘山城=「米沢城」説。(2)松ヶ岬城=「米沢城」説。
(3)舘山城=「輝宗隠居所」説。(4)舘山城=「新田氏居城」説。
(5)舘山城=「築城途上」説。(6)矢子山城=「米沢城」説。
(7)舘山城=「アイヌチャシ跡」説。

しかしながら、あくまでも文献主導での分析や解釈で、図化作成や遺構の分析を行わなかったこともあって、これらの説が一般的に定着するまでには至らなかったようですが、舘山城を研究対象として真摯に向き合った姿勢には敬意を表します。ちなみに、これまでの研究において(6)の矢子山城説や(7)の「チャシ跡」説については、成立しないことが判っています。可能性として(1)~(5)があげられますが、舘山城の性格については後で述べます。

(2)舘山城の調査

舘山城が大きく注目されるようになったのは、平成元年~平成8年にかけて山形県教育委員会が実施した山形県中世城館跡調査からです。この調査では、県内の多くの貴重な城館跡が発見され、地域活性の象徴としての城館跡の存在が注目されるようになってきました。

米沢市も例外ではありません。舘山城に関しては、全長350mを誇る山城で、巨大な堀切と土塁が設けられた山城として注目されました。舘山城を分析した手塚氏は、伊達氏の居城の可能性を指摘しています。その根拠としては①置賜最大の山城であること。②伊達治家記録の記述「要害・懸造り・御城は山上」等の文献記述に符合すること。③山城に根小屋遺構が付随すること。④対岸に広がる舘山平城の存在などです。

平成13年の舘山北館の発掘調査では家臣団の屋敷群が検出され、9期に亘る建物の変遷が確認されています。建物群の配置関係や出土遺物の分析などから伊達時代に成立したことは確実です。

米沢市教育委員会では、伊達氏を代表する舘山城の全体解明と活用を図るため、国指定を前提とした史跡公園の実現を目指す目的で、平成22年度からの本格的な調査を開始しました。調査は平成26年度まで行われ、東館からは庭園状を有する遺構の発見や曲輪Ⅰの桝形と土塁西側に石垣が新たに検出されました。石垣は当初、伊達氏の普請の可能性も考慮されましたが、石積技法から舘山城が機能を失った後に上杉氏が改築したとの判断が示されています。

こうした成果を踏まえ、舘山城は伊達氏を代表する重要な山城跡として平成28年3月1日付けで国の史跡に指定されました。

2.舘山城の規模と形態

舘山城跡は大樽川と小樽川が合流する舌状丘陵と川を挟んだ平坦地に展開するもので、約34万㎡の範囲に分布しています。城は、尾根の先端部を利用した全長350mの山城を主郭として、北側と東側、南に離れた三箇所の平坦地が付随する構造となっています。これらの平坦地を便宜的にそれぞれ、舘山北館・東館・南館と称しております。山城は、南側の急激な崖面を利用し、北側を急勾配の人工斜面で削り出して整形したもので、縦堀と堀切で区画した三箇所の曲輪で構成しています。大手門は東館西側の大樽川に接する個所と推測しています。ここからは、舘山城を構成する遺構について案内したいと思います。

舘山東館の西側が山城に侵入する大手門①にあたります。崩れた大手門よりつづら折れ沿いに道路を進むと南虎口②が曲輪Ⅰの入口です。幅14m、奥行き11mの方形に削り出した平坦面に粘土を貼付した貼床で、南側に川原石を組み合わせた排水溝が付随しています。柱跡は確認できなかったが南虎口「南門」と思われます。この入口に通じる道路の山裾には排水用の溝が掘られています。道路は、大半が崩れているが虎口付近の形状を参考にした場合、幅3.6mと想定されます。道路の崩れは破城した可能性を考えています。山城の南斜面は人工的に削平し、南門と同様に粘土を貼付していることも判りました。

(1)最大の面積をもつ曲輪Ⅰ

虎口から城内に入ると東西120m、最大幅68mの広大な平坦地が曲輪となります。側面には移動のための道路とする帯曲輪が設置され、北側の帯曲輪は主郭から搦手に通じる仕掛けとなっています。後述する桝形の配置より、この曲輪が最終的に主郭として機能したとみています。東に進むと舌状の先端部が見えてきます。一段下がったテラス状の曲輪③は、伊達天正日記にしばしば登場する「懸造り」が存在した場所の可能性があります。その直下に舘山発電所の導水口及び発電施設が山麓に設置されています。安全のための手すりと内部への侵入を規制していますので立ち入らないで下さい。この場所からは米沢市街が一望されます。宮城県から来てくださった方々の中には、仙台城や岩出山城と景観が似ているとのご意見をいただいております。③のテラスを後に北側の帯曲輪沿いに進むと北側に降りる道路④が見えてきます。後で説明する北館への連絡道路と推測しています。

さらに、西側の中心のあたりには三箇所の窪み⑤があります。そのうちの一箇所を調査したところ、直径約2mの円形状の掘方に幅120cm、深さ80cmの板枠を設置した痕跡が見つかっています。当初、井戸跡と推測していましたが、浅いことや形態から水を貯めておく貯水槽と判断しています。調査用のボーリング棒を刺すと無抵抗で沈むことから、他の二か所も同形態の施設もしくは、井戸跡の可能性もあります。この付近には、水場を好む植物が繁殖していると石栗正人先生から教えていただきました。そして曲輪Ⅱに接する西側には、桝形と土塁、竪堀を設置して東西防御を強固にしています。

(2)桝形と石垣

南北の土塁⑫は幅8m~12m、長さ43mを測り、北端で折れを二箇所配することで方形状の高まりを設けています。それに、北側から「L」字状に配した幅8m、長さ26mの土塁を接続させて方形状の空間を構成するのが桝形⑥となります。桝形の手前には、円形状の石溜まりがあります。拳大から人頭大の円礫を集石したもので桝形内部にも散乱しています。同様に縦堀⑪にも円礫が多量に存在していることで、その円礫の機能を探るために掘り下げてみると、石垣が姿を現しました。あの多量の円礫は石垣を積むために用意した裏込石「栗石」でした。

石材は、舘山城の北側約1.5kmに位置する石切山から切り出された凝灰岩擬と判明しています。石垣は「打ち込みはぎ」と呼ばれる技法であり、コーナー部は長方形と方形の石を組み合わせた「算木積」を用いています。打ち込みはぎの技法は、西日本では肥前名護屋城(政宗も普請)など、すでに天正期頃からその存在が認められていますが、東日本で本格的に使用されるのは慶長期以降と考えられるのが一般的です。

よって、今回の石垣を上杉氏と判断した経緯があります。

しかし、伊達時代の山城の中には、石垣を使用した事例も存在します。高畠町志田館、南陽市岩部山館、同二色根館、米沢市羽山館、小国町大窪砦などであり、伊達氏が普請した可能性も否定できないと本会では考えています。しかしながら、裏込め石で石垣を意図的に埋めていたことは明らかで、破城行為の一環とみています。

さらに、縦堀は石垣を構築するために埋め戻していたことも確認されました。一部、確認のために掘り下げたところ、湧き水や崩壊の恐れが生じたために底辺までの掘り下げは断念しています。現況からは少なくとも4.5m以上で、堀の形態も薬研堀の可能性があります。幅は約16mで、土塁⑫の内部を通っています。

つまり、土塁⑫や桝形⑥以前は曲輪Ⅰと曲輪Ⅱを区画する大規模な空堀が存在し、縦堀⑦に接続していたものと推測されます。その際には曲輪Ⅱ側に土塁が備わっていた可能性があります。

(3)曲輪Ⅱは最初の主郭

次の曲輪Ⅱ⑩が主郭と考えています。この場合は、曲輪Ⅰの縦堀を埋める以前の役割であり、堀を埋めて土塁と桝形を設置した段階では曲輪Ⅰが主郭に代わります。

曲輪Ⅱは南北70m、東西60mの方形状に区画したもので西側を遮断するように幅15m~25m、高さ6mの土塁⑨があります。南側をやや狭くして折を設け、南北に配した土塁は全長85mを測り、置賜地方では最大規模を誇ります。北側にも幅5m~8m前後の小規模な土塁が設置され、東側で南に折れて⑧の虎口が開きます。この虎口を北に進むと道路に利用した帯曲輪が西端の搦手⑬へと延びます。

 

注目されるのは、帯曲輪の形状です。曲輪Ⅱ直下の縁辺に溝を配して排水溝とし、土塁状に配した帯曲輪を道路としての機能をもたせたものであり、横堀状帯曲輪㉑と称した帯曲輪の一種で、天正13年(1585)に伊達政宗が築城した檜原城にも採用されています。こうした横堀状帯曲輪や畝状横堀を多用するのも伊達輝宗期から政宗期にかけての山城の大きな特徴で、米沢市戸塚山館・同三沢館、南陽市二色根館、川西町松ノ木館・同柳沢館などが知られています。

南側にも貧弱な土塁を部分的に配しています。主郭と平地との比高差は約40mを測ります。

 

(4)水路に利用された堀切

搦手から西に進むと堀切⑭が現れます。最大幅28m、深さ約10mの堀切には舘山発電所に通じる水路が設置されており、ほぼ中央で直角に東に折れた導水管はトンネル工法で掘られたものであり、曲輪Ⅰ・曲輪Ⅱの地下を通って東先端部の導水口と接続します。中世の堀切を上手に利用した水路は約1.5kmの小樽川上流から給水されたものであり、トンネル工法を採用したことで堀切は、ほぼ当時の姿を留めております。

堀切は、搦手⑬に隣接する塚から南端の崖に面する約100mの長さをもつ箱堀で、土塁⑨とともに西側最大の防御施設となります。一部、工事堀削の土砂が堀切内に置かれているが、約60mの南側は当時の面影を残しています。

(5)物見台

堀切南側の底面から崖に沿って10mほど登ると約12m四方の不整形なテラス状曲輪があり、北側に腰曲輪を多用しています。そのテラスより5mの高さにあるのが物見台⑱となります。長方形に整形された長径18m、短径11mの平坦地で、主郭の曲輪Ⅱよりも15mほど高い位置にあります。北側寄りには江戸後期に建立されたと思われる山の神を祀る石祠と石灯籠が残されており、かつて山の神講が盛んに行われていたことを示すものです。この平坦面に櫓を設置していたと推測されます。

そして、この物見台の西側が最後の防御施設である堀切⑲となります。物見台の西側を囲む様に、弧状に尾根を切断したもので、長さが75m、最大の幅が物見台の縁までとして29m、両端の幅が12mをなしています。深さは、物見台から底面までが10.2mで、北半分が矢研堀状、南側が狭い箱堀状を示しておりますが、基本は矢研堀と考えています。

(6)曲輪Ⅲは信仰の場

物見台の北側に面するのが小規模な曲輪Ⅲです。東側は堀切⑭、西側に土塁⑯を挟んで縦堀で区画された南北長の長径57m、幅18mの平坦面で、中央南寄りに修法壇と推測される方形の塚⑰を築くのを特徴としています。土塁は幅11m、長さ60m、高さ約2mの低いもので南は物見台⑱に、北側は土橋⑮に接続しています。縦堀は土橋を挟んで南側が幅10m~15m、長さ52mを測り、南端の堀切⑲に接し、北側が幅10m、長さ20mで、堀切⑭と接続する形となっています。塚は高さ1.6m一辺9mの方形を示すものです。こうした塚は、大規模城館跡の居館に見られる場合が多く、米沢市長手館や福島県桑折西山城の西館に石積塚が存在しています。塚に関しては、戦勝・安全祈願等を目的に築かれた修法壇の可能性が高く、曲輪Ⅲはこうした信仰の場として機能していたものと推測しています。

一方、土橋を西側に進むと廃寺跡と呼ばれる平坦な個所があり、低いテラスや浅い溝跡が確認されています。この範囲までを山城の領域と推測していますが、未調査のために詳細は不明です。