舘山城の構造Ⅱ

3.舘山城周辺の関連施設

舘山城の周囲には舘山南館・舘山東館・舘山北館といった平坦な面が存在し、大樽川・子樽川「鬼面川」を隔てた対岸にも大規模な舘山平城が存在することが判っています。こうした平坦地がどのような役割で置かれ、舘山城とどのように係わっていたかについて述べておきます。

(1)舘山北館の屋敷群

平成13年に実施した舘山北館の緊急調査では、中世期に属する堀立建物跡群を主体とした屋敷跡が9期に亘って整然と配置され、各屋敷内には井戸が付随するといった特徴を示しています。さらに平地では類例のない薬研堀も確認されています。

特に注目されたのは、調査区の南東部から検出されたDY7の井戸を伴う建物跡で、Ⅰ期~Ⅳ期までに4回の立替を行っています。

同じ柱穴に重ならないように上手に柱を立てⅠ期は2間×3間、Ⅳ期は4間×6間と立替ごとに大きくなっています。柱穴は30~70cmで、深さは20~60mに約20cm前後の柱痕跡が確認されます。柱には粘土を巻き付けた「粘土貼付痕」を用いています。この手法は、館山北館で初めて観察された工法で砂利層などの不安定な地盤に柱を固定するためのものです。大江町の左沢楯山城でも確認されています。柱の間隔は5~9尺と統一されていないが、7尺を示すのが多いようです。こうした、同じ場所に何度も立替を行うことは特に珍しいことではなく、堀立建物跡といった耐久性の問題や重要な施設を配している場合が多いようです。米沢以前の拠点であった桑折西山城の主郭にも重要な施設「殿舎」の立替が4期に亘って確認されています。

北館で検出された33棟の建物は、3~5棟を単位として屋敷を構成するのを特徴としています。これらの建物群は、舘山城(山城)の成立とともに配置された家臣団の屋敷群及び関連施設と推測され、舘山城が比較的長い期間に亘って存在し、想像以上に広大であったことを示唆しています。出土した土堝などの分析から概ね伊達晴宗~伊達政宗の年代と符合するとみています。

元亀元年(1570)4月4日の中野宗時・牧野久仲の謀叛で登場する新田遠江守景綱の隠居所「笹平」とは、この北館で検出された屋敷の一角と考えています。

山城に屋敷群が共存して確認された例は、全国的にも少なく、東国の中世城館跡を知る上で極めて重要な遺跡と評価されています。

こうした成果を鑑み、発掘調査で主要遺跡が検出された3000㎡については、平成17年度に米沢市が公有化を行っています。

一方、舘山北館に関しては、詳しい分布調査によって面積がさらに拡大していることが指摘されています。小樽川護岸に面する平坦地、その上の第2段丘面、そして建物群が検出された第3段丘面を含めた範囲であり、その斜面の一部に小規模な石垣遺構が見つかっています。

さらに、小樽川護岸にも石垣と石塁状遺構が確認されており、舘山城に伴う護岸遺構の可能性も考慮する必要があります。

(2)舘山東館

舘山東館からは、庭園の一部とみられる池跡と道路跡、井戸跡、墓壙、柱穴群、屋敷の区画を示す石敷等が検出されており、身分の高い人物が居住していたと屋敷跡から推測されます。遺物としては、中国から輸入された陶磁器を始め、土堝、かわらけ等の素焼きの焼き物、鉄の精錬を意味する坩堝や鉄滓が出土しています。

さらに、屋敷の側に埋められた墓壙からは鉄の短刀一振や戸長里焼も検出されています。川に面した東端には道路と対岸面に橋脚の痕跡が観察され、この場所に橋が掛けられ舘山平城と連絡していたものと見られます。

(3)舘山南館の空間

南館からは縄文時代や奈良時代・平安時代の遺構とともに中世の小規模な柱穴や溝等の遺構が確認されています。具体的な建物などは検出されないが、広い空間として整地していることは確かです。現在は雑木林となっているが、平面図で観察すると溝や畝で細かく区分されており、かつて畑として使用されていたことが判ります。この範囲だけでも25名の地権者が登録されています。西側には虎口が存在し、渇水時には大樽川を渡ってこの不便な場所で農作業をしていたことになります。一方、北側のテラスから谷沿いに道路が設けられており、東に進むと舘山城の曲輪Ⅱの堀切に接続しています。

ところで、大規模な山城の一角に、施設を伴わない広場の存在が最近知られています。その機能については、有事(敵の侵入)の際に領民達を保護するための避難地や軍事演習の場、緊急時の農地などといった説があり、避難地用の広場とする考えが一般的であります。南館については推測の域を出ないが、古くから多くの住民の手によって守られてきたことは事実であり、舘山城を意識していたと考えるのが自然と言えます。

南館に具体的な遺構がないといって、舘山城域から切り離して考えるのは正しい選択ではないと言えます。

(4)舘山平城と南松土手

縄文時代の国指定史跡「一ノ坂遺跡」のすぐ西側に土塁に濠が伴う「南松土手」が存在していました。当時の記録によれば幅10m、高さ4mで、西側に幅6mの水濠が伴っていたとされています。現在は、土塁は北東端にあたる一部が奇跡的に残っています。地図上では1.3kmほどの長さを有していたものと想定されます。この南松土手と称される土塁については、江戸時代の絵図にも明記され、ここでいう舘山平城の外郭域に相当するものと考えています。舘山平城は、米沢市遺跡登録G527としているもので、南北が1.3km、東西1.65kmの範囲を指しており、中世期に属する遺構や遺物が広く分布しています。一帯は河岸段丘の発達で、縄文時代の遺跡も数多く存在し、国指定の一ノ坂遺跡を筆頭に、大樽遺跡・生蓮寺遺跡・舘山A~C遺跡等の縄文早期・中期・後期といった大規模な遺跡が集結する複合遺跡群となっています。

さて、舘山平城の調査であるが、昭和61年の生蓮寺第1次調査から平成16年の舘山C遺跡第2次調査まで、宅地造成や道路拡幅工事に伴う移転地の調査などで14回の発掘調査が行われています。

これらの調査で確認された遺構を中世期に限定して検証すれば、堀立建物に伴う柱穴の検出が多く、調査区全域から認められます。建物跡としての検出は生蓮寺第3次調査と舘山C遺跡第2次調査の桁行2間相当分であります。柱穴は、50cm前後の掘方に15cm前後の柱痕跡が大半で、主体は中世期に属するとみているが、江戸期に入って構築された柱穴群も含まれていると考えています。土壙は、縄文時代と明確に区分することは難しいが、生蓮寺第1次調査や大樽第2次調査、大樽第4次調査のように墓壙に属する遺構もあります。井戸跡は第4次・5次・6次・8次調査から検出され、舘山北館や舘山東館と同様に掘方の底面から礫を積み上げながら固定していく方法で、中世期の屋敷に伴うものと考えています。井戸で大事なことは、戦国時代と江戸時代では大きく異なります。慶長6年(1601)に上杉氏が米沢に入部するのを受けて、直江兼続は領内の開拓及び米沢城の町割を緊急に実施します。その最初に着手したのが谷地河原堤防「直江石堤」の築堤と堀立川改修等の治水事業です。御入水を代表する用水路を完備し、屋敷内に水を廻らせた所謂「流し場」を普及させたことによって、井戸の利用は急速に少なくなったものと推測されます。

溝状遺構は、舘山C遺跡第1次調査の箱堀や大樽第7次調査で検出された薬研堀、屋敷を区画したと推測される大樽第2次調査の溝跡が注目されます。特に舘山C遺跡第1次調査の箱堀は南北方向に延びる土塁と併行するものであり、重要な施設を囲っていたと思われます。他に集石遺構や竪穴状遺構など、舘山北館や東館と共通する遺構が舘山平城でも検出されています。

このように舘山平城に関しては、調査範囲が限定的であることで、全体像は明確にできないが、舘山城と共存関係にあったことは間違いなく、後で触れる舘山御館を示す範囲と推測され、舘山城の解明とともに注視していく必要があります。

4.文献でみる舘山城

舘山城の性格を考える前に、伊達正史について述べておきます。特に伊達稙宗を代表するのが、塵芥集・棟役日記・段銭古帳で、領内の支配を整えるために作成したものです。特に「塵芥集」は、稙宗が天文5年(1536)に制定公布したもので、条文はおよそ170条に及び、分国法中最大級になります。体裁に御成敗式目の影響が見える他、殺人・強盗など刑罰に相当する部分に詳細な規定があることや地頭の支配権が広く認められている点などが特徴となっています。

この法典の公布を契機に、伊達稙宗は領国内の地頭領主層の裁判権・刑罰権を大幅に吸収集中して、戦国大名としての権力の樹立に成功したものとみられています。

伊達晴宗は「晴宗公采近賜録」を残しています。天文22年(1553)に晴宗が家臣に所領安堵の判物を給与した際の控えを集成したもので、伊達領内の領主・支配地の様子が窺える貴重な資料となっています。

伊達輝宗時代の資料としては、輝宗の側近・遠藤基信の残した「遠藤山城文書」が有名です。31通の書状が所蔵されており、そのうちのほとんどが遠藤基信宛のものとなります。早いうちから室町幕府に見切りをつけ、織田信長とも連絡をもった伊達輝宗外交について解き明かす一級の文書資料として高い評価を得ています。

そして、伊達輝宗・伊達政宗を語るに欠かせないのが「伊達天正日記」と「伊達治家記録」です。前者は天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日まで、飛び飛びではあるものの伊達家の公式記録として書かれた日記を集めたもので、信憑性が高いとされています。性質上、伊達家当主である政宗の行動やその周辺に重点が置かれています。

後者の「伊達治家記録」は、伊達氏16世輝宗から29世慶邦まで約350年間の歴代の事蹟を明らかにした伊達家の正史で、全部で696冊から成っています。治家記録の編纂は、元禄16年(1703)に仙台藩4代藩主伊達綱村によって始められたもので、信頼性も高く、伊達家について研究する上で一番外せない基本史料となっています。『治家記録』の引用参考書のなかに「当家其時代之日記」とあるのは前者の天正日記のことであると考えられています。

さて、米沢城や舘山の記載があるのは、「伊達天正日記」と「伊達治家記録」となります。詳しくみてみると、城に係わる記述としては下記のようになります。

○元亀元年(1570)4月4日・輝宗の家臣新田遠江守景綱の子・義直を捕え、中野宗時・牧野久仲の謀反が露顕する。景綱は義直の居城館山を奪取し、義直を捕えて輝宗に差し出した。中野・牧野は謀反の露顕で邸宅や家臣の家々に火を放ち、久仲の居城小松城にたて篭もる。この放火で「御城下」は焼亡するが、「御城」は「山上」にあったために恙なし。

○天正12年(1584)7月上旬・輝宗、隠居し家督を政宗に譲る。輝宗は「米澤城辺舘山」に「御城」を築き隠居所とする(「米澤館山城」に御座するとの記述もあり)。普請が成就する天正13年までの間、鮎貝安房宗重宅(「宗重ノ米澤ノ私第」)に居住。

○天正15年(1587)1月9日・政宗、「米沢城」西の田畑を遠藤文七郎に給与する。11日・政宗、舘山に地を相し城を築かんと欲して絵図を老臣に示す。2月7日・政宗、去月11日舘山地取の絵図について老臣等と御談合あり。この日御出、地割あり。この城は元性山公の隠居所であり、再度普請を行う。理由は不明。4月8日・政宗、杉目より米沢城に到着。この日、池等を造り、池に魚・鳥を放し、舟を浮かべて家臣等と遊興する。・懸造りの記述「御せんすいの懸つくり被出候」。等懸作りにかかわる記述が天正15年だけで4月17日・6月13日・7月25日・7月27日・8月5日の7回記載されている。懸作では片倉小十郎等の側近等を交えての能や乱舞、宴会を催している。また、たて山川「大樽川」に度々訪れて川遊び等を楽しまれている。7月22日・政宗、「たて山御たて(舘山御館)」で食事をし、明け方に帰る。

○天正18年(1590)2月22日・政宗、御門の構えをなおす。2月22日・政宗、「かたくら藤ゑもん(片倉藤左衛門)」長井庄おたて山川(小樽川カ)での金鉱採掘を許可し、「要害(舘山城)」や周囲の田畑に影響がないように指示。毎年10貫文の代物納入する。2月29日・政宗、米沢にいる伊達鉄斎に「要害」普請を進めるようにとの指示。

ここで大事なことは、天正日記で城を示すものとして「たて山・舘山・おたて山川・要害・たて山御たて・御せんすい・懸つくり」だけで、具体的な米沢城といった表現はありません。伊達治家記録に出てくる米沢城は、元禄16年(1703)の編纂時に米沢の城に係るものを「米沢城」と統一したもので、この米沢城が現在の米沢城「上杉氏」と同一に扱われるようになったものと推測されます。

では、天正日記にある表記ですが、たて山は舘山の位置を示し、おたて山川は舘山の川を指し、大樽川もしくは小樽川とみられます。要害はずばり山城を指した舘山城です。たて山御たては舘山御館で、居館とみられます。御せんすいは御泉水のことで、池に設けられた噴水を示しています。懸つくりは懸造りを示し、崖面に柱を立てた大規模なステージを示しています。

このように、天正日記をみる限りでは、伊達氏に係わる城は要害と山城とその居館となる舘山御館で構成されていたことが読み取れます。山城には懸造りが設けられ、片倉小十郎等の側近を交えての能や乱舞、宴会を催しています。麓には噴水池があり、魚を放して釣りを楽しんでいたことが判ります。

さて、舘山城であるが、いつ成立したのでしょうか。最初に文献でその存在を示すのが、伊達治家記録に出てくる元亀元年(1570)4月4日の中野宗時・牧野久仲の謀叛に関する記述です。謀叛が露顕すると中野・牧野親子は、宅や家臣の家に火を放ち、久仲の居城小松(川西町小松城)に退きます。この放火で「御城下」は焼亡、「御城」は「山上」にあったために難を逃れたとあります。ここの御城下は、舘山御館がある舘山平城で、御城の山上は舘山城と考えられます。従って、元亀元年の段階には舘山城が存在し、機能していたことが窺えます。

ここで、大切なのが最も信憑性が高いと評価されている「天正日記」であります。天正15年(1587)1月1日~天正18年(1590)4月20日までの約3年間の記録であり、それ以前の詳しい記録となると江戸時代に編纂した「伊達治家記録」ですが、前述したように舘山城について記載されてあるのは元亀元年の記述のみです。この謀叛で登場する舘山城についても、伊達家臣の新田氏の居城とみる向きもあります。

よって、伊達氏の舘山城が実際に機能するのは天正15年「天正日記」の輝宗隠居以降とする考え方があります。

置賜地域には、城主の不明な山城が数多く存在します。特に、最近、新たに発見された片倉小十郎の「片倉山館」、舘山城を防御する目的で築かれたと推測される置賜最大級の小野川町「天狗山館」、茂庭氏の「川井館」、網代氏の「長手館」、小梁川氏の「鷺城」とまだまだありますが、どの文献にも城の存在を示す記録(伝承をまとめた地誌類に一部記載)は残っていません。ただし、具体的に戦火を交えた城は例外で、上杉氏と最上氏が戦った「長谷堂城」や「旗谷城」等、勝者側の記録として誇張されるといった特徴があります。

一方、上杉氏の米沢城の調査も二の丸跡を中心として、過去14回程の発掘調査が実施されています。

平成3年度の米沢城東二の丸跡の調査では、多くの堀立建物群を始め、屋敷内に配された木桶と竹筒を利用した上水施設(水道)や寺院跡が検出されています。近世では珍しい畝畔状の障子掘も確認されています。大半の遺構は、江戸時代に属するもので、近世における米沢城の様子が判ってきています。また、一部、中世期に属する溝跡や柱穴、土堝等の遺物も検出されていることで、屋敷跡(万世町堤屋敷的な)もしくは小規模な集落跡が存在したことも確かです。

こうした科学的な調査資料と文献資料が一致するのが望ましいのではあるが、戦国時代の城館跡に関しての文献資料は皆無に等しいのが現状です。

よって、地誌類や伝承を参考に、城館跡の規模や形態が重要な手掛かりとなるのです。ちなみに、片倉山館の場合は、山城の小字が「片倉山」で、麓には小字名の「光明寺」と「堤端屋敷」が残っています。光明寺は伊達時代に機能していた寺院であり、堤端屋敷は根小屋と推測されます。地元でも古くから片倉小十郎築いた城跡と伝わってきており、小十郎の居館跡である可能性が極めて高いものと推測しています。

5.舘山城とは

舘山城の性格に関しては、諸説があることは承知しています。紹介するに当たらない大胆な説もあるが、一連の(舘山城)発掘調査等の成果によって、舘山城が伊達氏の中心的な居館である「米沢の主城」の公算が強くなったといえます。これまでの舘山城の調査を踏まえると少なくとも次の三段階の変遷が想定されます。まず、第1期としては、舘山城が成立した最初の山城です。曲輪Ⅰを主郭としたもので、西側に堀切及び縦堀を設けた単純な構造と推測されます。大手となる登上口は南北に図示しておいたが、舘山北館の屋敷群を根小屋とみた場合、北側に大手口が存在するのが理想的です。舘山北館の成立とともに山城が築かれたと考えるのが妥当であり、伊達晴宗の入部以前から存在していた山城を晴宗が整備したのが第1期に近い山城と考えています。では、晴宗入部以前の城となると明確にできませんが、長井時代から田沢地区を治めていた新田氏の可能性があります。あの元亀元年(1570)の中野宗時・牧野久仲の謀叛に加担して捕えられた新田遠江守景綱の子・義直は笹平(舘山北館)に居を構えていました。もしかすると、この時点の舘山城は、義直が留守役を兼ねていたかも知れません。

新田氏の居城については、脇之沢館を山城に上ノ町館や塩地平館を根小屋とする見方もありますが、なお今後も検討する必要があります。

次の第Ⅱ期が伊達輝宗時代の舘山城です。西側に曲輪Ⅱを設けて、巨大な土塁と堀切、物見台を備えました。土塁や堀切が巨大化するのには訳があります。これまでの槍や弓矢といった合戦から織田信長が用いた鉄砲を主体にした戦術が主流となってきます。こうした、飛び道具から城や兵を守るために堀や土塁を複数にし、巨大な土塁等で防備するようになってきます。ところで、輝宗は会津平定を目指し、永禄7年(1564)4月12日、将石川但馬をして芦名盛氏の檜原塞を襲撃したが敗れて失敗に終わります。その後も永禄8年(1565)・永禄9年(1565)と3度出陣するが、蘆名氏の家臣穴澤氏の強烈な抵抗に屈し、悉く退けられたのです。こうした中で、蘆名対策としての舘山城の改築を行ったのがⅡ期の舘山城と考えられます。

最後の第Ⅲ期が、伊達政宗時代の山城です。Ⅰ期から存在していた堀切を埋め戻し、土塁と桝形を築きます。桝形の内面と土塁の西側に石垣を設け、これまでの曲輪Ⅰを主郭としました。また、曲輪Ⅰの東端に懸造を建設したのもこの時期と推測しています。石垣普請については、報告書では上杉氏を示唆しているが、伊達氏の可能性も検討すべきで、本会は、先述したように伊達氏の可能性を支持しています。上杉氏は関ヶ原戦いで西軍に与し、会津では徳川と反目したことによって領地を30万石に削減されて米沢に移ります。そうした環境での石垣普請は極めて危険な行為といわざるを得ません。置賜管内の伊達時代の山城で、石垣が発見されている現状を考えると慎重な判断が必要になります。

今回図示した縄張図を分析すると、舘山城と共通する特徴を見出すことができます。まず、政宗が天正13年に築いた檜原城では、山城の側面の帯曲輪には側溝が伴っており、舘山城にも同様な施設が付随しています。こうした帯曲輪に横堀を配するのは伊達輝宗期から政宗期の山城にみられる手法で、縦堀等に箱堀と薬研堀を併用するのも舘山城、檜原城、岩出山城、政宗が改築したと推測する桑折西山城にも存在します。

さらに、主要曲輪の側面に多用する階段状の帯曲輪も伊達型山城の特徴で、岩出山城で使用されています。幅広の斜面テラスは丸森城を代表する遺構の特徴で、岩出山城の西曲輪群と南曲輪群の重要な施設となっています。同様に16世紀前半頃から登場する棚田状曲輪は、米沢市の鷺城、同天狗山館、南陽市宮内城等の大規模山城の根小屋遺構として用いられた施設であり、桑折西山城や岩出山城にも採用されています。

さて、天文17年(1548)に家督を継いだ伊達晴宗は、これまでの桑折西山城「福島県桑折町」を破却して居城を米沢に移します。その際の拠点となった可能性を舘山城と考えています。

以後、米沢の支配は輝宗・政宗と続き、天正19年(1591)豊臣秀吉の命で政宗は、岩出山城「宮城県大崎市」に居城を移すことになります。ここで12年間(実質一年弱)を過ごした後、慶長5年(1600)に政宗は大規模な仙台城「宮城県仙台市」の築城を着手します。伊達氏の桑折西山城から開始された山城形態は、移築ごとに改良を加えながら最終的に仙台城で終焉を迎えることになります。

伊達氏の主城は、梁川城「平城」→桑折西山城「平山城」→舘山城「山城」→岩出山城「平山城」→仙台城「平山城」と拠点を移してきました。平城から丘城、丘城から要害(山城)への転換であります。丘陵と河川を利用した城造りの原点は梁川城であり、広瀬川と塩野川に挟まれた範囲に城郭を構築し、桑折西山城も蛇行する産ケ沢川に抱かれた丘陵全体を城域としています。この西山城から主郭を独立させて要害「山城」へと発展させたのが舘山城で、以後も岩出山城、仙台城と継承されてきたと思っています。同じ頃、稙宗も阿武隈川と五福谷川が合流する丘陵に要害「丸森城」を築いております。

これまで、舘山城と主要遺跡、関連城館跡と述べてきたが、伊達氏を語るとき、個々の遺跡ではなく、史跡や資料を保有する関連県や地方自治体・民間研究団体等と資料を共有しながら研究を進める姿勢が大事だと考えます。作図する前は、大半が開発で破壊されていたと思っていた岩出山城は、意外と多くの遺構が残っており、本格的な調査がまたれる史跡です。丸森城跡は、一部が改変されているが大半の遺構は当時のままで残り、保存状況の良好な史跡として調査と活用が楽しみな遺跡です。桑折西山城は、伊達氏関連城では最初に指定された国の史跡で、保存活用に向けた調査が現在も進められており、期待しています。仙台城も震災以降の調査で、新たな発見があるなど、今後も継続した調査を楽しみに期待しております。

そして、地元ですが、石垣が検出された南陽市二色根館と高畠町志田館は、伊達氏の歴史を解明する上で極めて重要な遺跡です。保存状況は良好で、調査と将来の活用を期待しています。同じように、川西町館山館、小国町小国山城も伊達型山城を代表する重要な山城です。

米沢は舘山城の解明と活用が重要です。だが、舘山城を構成するのは舘山城だけではなく、関連城の解明も必要になってきます。特に、最近発見された片倉山館、天狗山館、それに鷺城を含めた既存発見の伊達氏関連遺跡の調査研究です。米沢市を中心とした置賜管内には、未調査の中世城館跡が数多く残っています。平成28年度は舘山城が国指定を受け、平成29年は伊達政宗公が生誕450年を迎えます。この記念すべき出来事を契機に、伊達氏関連史跡の解明が飛躍することを望みます。