舘山城と関連城館跡

1.丸森城「宮城県伊具郡丸森町渕ノ上」

丸森「丸山」城は阿武隈川の南岸、国道113号線丸森大橋の南側に位置する標高70m、比高50mの丘陵にあります。伊達晴宗と父稙宗が争った「天文の乱」で敗れた植宗の隠居所として設けられた連郭式の山城で、天文17年(1548)から永禄8年(1565)までの17年間を過ごしました。城は、尾根を堀で区画した3箇所の曲輪で構成し、尾根中央部の東西58m、南北35mの平坦地が主郭で、北側に舌状の低い曲輪が付随します。堀と土橋で隔てた東端の東西60m、南北20mの平坦面が二の丸跡で、愛宕神社と伊達稙宗の墓碑が存在します。北側斜面には侍屋敷跡と見られる長方形のテラス状曲輪群が配されています。西側の縦堀(堀切)で尾根を分断した42m×26mの「上曲輪」と一段低い58m×48mの「下曲輪」の空間は三の丸に相当する範囲です。この主郭及び二の丸・三の丸を防御する複数の幅広の帯曲輪を北斜面に階段状に配するのも特徴です。この中には幅3m前後と通路を意識したものや幅20m以上の舌状曲輪を不規則に組み合わせた遺構もみられます。このように丸森城は当時の様子を伝える貴重な複郭式山城を代表するものです。

2.桑折西山城「福島県伊達市桑折町字万正寺」

桑折町の中心部から北西約1km、奥羽山脈から東に延びた支脈突端の高館山塊と、その南東山麓部を範域とした東西約1km、南北1.8kmの複郭式の平山城です。この山塊を北側から東側にかけての山麓を深く浸食した産ヶ沢川が城域を区画するように天然の外堀となり、稜線上には東から高館、中館、西館、そして南側の団子沢川を境に常陸、常陸館と続く曲輪を築き、全体を巨大な城壁に見たてています。主郭の山城は、東西330m、南北200mの範囲で、北端部の平場が中核となる本丸跡、空堀を挟んで南側に二ノ丸跡を配し、その両袖に東郭「砲台場」と西郭「中館・西館」が張り出し、その間に大手門を構えた馬蹄形状の館遺構で、土塁や空堀は堅固に築かれ、北側から東側南側にかけての三方は自然の急崖をなす要害地形で、西側は空沢を隔てて中館と相対しています。中館と西館とは空堀で区割りされ、互いに独立した郭を形成するのが特徴で、外堀と土塁が廻ります。西館の桝形及び土塁には割石を積上げた石塁が設置されています。また、中館・西館に関しては、空堀や虎口の形態が米沢の舘山城に類似することなどで、奥州と羽州街道が分岐する桑折西山城の重要性を意識した伊達政宗が改修した可能性が指摘されています。桑折西山城は、伊達稙宗が天文元年(1532)梁川城から拠点を移した城となります。この西山城は、越後上杉氏への入嗣問題を契機に伊達稙宗と伊達晴宗が南東北の諸大名を巻き込んだ「洞の乱」の舞台になった場所です。天文17年(1548)、将軍足利義輝の仲裁により、晴宗が家督を継ぎ、稙宗は丸森城に隠居します。その後、晴宗は米沢城を築いて移ったため、桑折西山城は廃城となりました。

3.檜原城「福島県耶麻群北塩原村金山・早稲沢」

天正13年(1585)伊達政宗が、蘆名攻めの拠点として築いたものです。蘆名氏との戦いは、父輝宗から続いていたが、蘆名家臣で戸山城・巌山城を守る穴澤一族の厳しい抵抗によってことごとく撃退されていました。しかし、天正13年に檜原城を築くとともに、内応策を用いて穴澤一族の結束を乱し、ついに会津への進出を政宗は果たします。檜原城には城番として後孫兵衛信廉を守らせました。

檜原城は、檜原湖岸の通称小谷山、舘山といわれる標高954m、比高約130mの山頂に築かれた連郭式の山城で、本丸、二の丸、外郭からなっています。その周囲を深さ1m~1.6m、幅2.8m~5mの空堀が横走し、その外側に土塁が巡るのが特徴で、舘山城でも採用されている遺構です。本丸は約45m四方の正方形で、その南側の腰曲輪、虎口を通って大手口へ続く九十九折りへと続いています。本丸の北側には幅約9mの空堀を挟んで二の丸、虎口の南東側に外郭があり、その東西にはそれぞれ縦堀が延びています。また、桧原湖の湖水の中に、東西4町の桝形の土塁が残っているとされ、大手口の馬出の跡と伝えられています。城は北塩原村教育委員会の手によって散策道路が整備され、大切に保護されています。檜原城は、平成26年8月9日に会津若松城とともに当会が視察を実施し、塩原村教育委員会の布尾氏に案内していただきました。唯一、築城年代の判る檜原城は、政宗が舘山城を整備したと推測される遺構の検証に重要な意味をもつもので、舘山城北側の帯曲輪や曲輪Ⅱの土塁の形態が類似するなど、伊達氏関連山城を知る上で貴重な存在であります。

4.岩出山城「宮城県大崎市岩出山町城山」

岩出山城は江合川の南岸にある丘陵の東端部、標高108mの舌状丘陵に築かれた山城です。北の尾根の中心部にある本丸は中央に土塁があり東西に二分されています。

二ノ丸は本丸の西側に位置し、大手口は城の南側に、搦手口は北側に付随しています。現在本丸跡は公園となっており、かつて仙台城にあった平服姿の伊達政宗像が立っています。二ノ丸跡は岩出山高校、大手門跡は岩出山小学校の敷地となっており、北山麓に学問所として17世紀末に築かれた有備館は国指定史跡に指定されています。

(1)岩出山城の概要(岩手沢城)

岩手沢城は、大崎氏の重臣である氏家直益が応永年間(1394~1427)に築いた山城で、北羽前街道と羽後街道が交わる要衝の地であります。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置において大崎氏が滅亡すると、大崎旧領は木村伊勢守吉清に与えられ、岩手沢城は吉清の家臣・萩田三右衛門が城主となります。しかし、木村氏に対して不満をもつ大崎氏・葛西氏の旧臣らによる葛西・大崎一揆が勃発します。この一揆の責任により木村氏の所領が没収されると、葛西・大崎氏旧領は伊達政宗に与えられます。天正19年(1591)豊臣秀吉の命を受けた徳川家康が伊達政宗のために樫原康政に縄張させて改築し、名を岩出山城と改めたとされています。その時縄張りに用いた器具類を城中の一角に埋め、その上に米沢から成島八幡の分身を遷座して一祠を建立しました。八幡平と称し今も残されています。城郭は外堀をめぐらし、急峻な崖の上には土塁と内堀を備え、本丸、二の丸、三の丸も深い堀切で区画されています。慶長6年(1601)、政宗は関ヶ原合戦の恩賞として刈田郡を与えられると、新たに仙台城を築いて移り、城下の民にも仙台へ移転するように命じたのです。このように岩出山に政宗が居城を構えたのは慶長8年(1603)の仙台青葉城に移る12年間であったが、その間は朝鮮出兵や関ヶ原の合戦等の出陣のために実際は数ヶ月しか滞在しておらず、政宗の不在時は屋代景頼が留守を預かりました。

政宗の仙台城への移転後、岩出山には四男・宗泰が封ぜられ、元和元年(1615)の一国一城令以後は「要害」として存城し、岩出山伊達氏が1万4640石を得て明治維新まで統治しました。

(2)岩出山城の規模

岩出山城跡の説明版によれば、東西約800m、南北700mの規模と記載されています。作成した縄張図を基準に計測したところ、南の岩出山小学校校門から北端の岩出山中学校近くまでが750m、東西側としては西側の竹駒神社付近から東山麓の内川までの距離が560mとなっており、南北間の長さが異なっています。また城山公園に設置されている岩出山城跡城山公園史跡案内図(以下、案内図とする)も本丸跡と二の丸跡のみで、三の丸跡や主郭を区画する空堀を含む重要な遺構群は、残念ながら省略されています。城郭の平面図や縄張図がない中では仕方ないことです。唯一、江戸時代初期の城郭を描いた岩出山要害絵図(仙台市博物館所蔵=以後絵図とする)も縮尺に統一性がなく全体像を表したとはいえないものです。

さて、図示した縄張図は、現況を重視して作成したもので、後世に削平した箇所や近代に改変した部分も含まれています。岩出山城の変容としては、①大崎氏時代の城郭、②伊達氏入部後の城郭、③明治維新時点での城郭、④公園整備、学校建設後の城郭と少なくとも4回の大規模な改変を経て今日に至っています。

しかしながら、西側山麓から南側に至る山腹に残されている遺構の多くは、当時からのものと判断され、基本的な全体像を把握することができました。ここでは、全体的な遺構の分布と地形を加味し、便宜的に東西南北の4曲輪群に区分し、遺構の特徴を述べてみます。

(3)東曲輪群

東曲輪Ⅰが絵図に山城と示されている本丸を構成する曲輪群で、南北522m、東西225mの範囲です。

絵図には東西百三間半(186.3m)、南北十三間(23.4m)と記載されています。実際は、土塁②を含めた南北185m、東西間の幅が19m~46mとほぼ絵図と符号します。土塁を隔てた土橋南の東曲輪Ⅱは絵図で金丸と称される34m×56mの曲輪「像広場」で、この位置に政宗像が設置されています。土塁は削平されて細くなっているが主郭の西側縁辺部に残され、南端の土塁側面に江戸中期頃の石垣が存在します。主郭の周辺遺構としては、北端に物見①と急峻な堀切①、登城口はアスファルト道路、搦手からの進路には腰①~腰③の腰曲輪、東斜面には斜①~斜⑦の斜面テラス群が配備されています。ただし、斜①のSL広場、斜②の噴水、貯水槽については大きく改変されているものと推測されます。一方、南側は帯②を隔てた斜⑧と東曲輪Ⅲ「南広場」、東曲輪Ⅳ「南歌壇」に斜⑨で構成され、絵図で示されている蔵屋敷の一部とみられ、大半は岩出山小学校の敷地内に含まれています。

次に西斜面は縦堀①と縦堀②で区画した東曲輪Ⅴと東曲輪Ⅵが山麓に沿って延びています。説明版には、二の丸跡と記され、公園整備によって大きく削平されているのが残念です。規模は、東曲輪Ⅴ(こども広場)が92m×25m、東曲輪Ⅵ(上・中・下さくら広場)が168m×32mを測り、小規模な堀切を隔てて北曲輪群と連絡しています。

(4)西曲輪群

先端が「L」字状を示す縦堀②と逆「L」字状を示す縦堀①で区画された外郭部の西側斜面に広がる曲輪群で、南北270m、東西170mの範囲を本曲輪群としました。ほぼ中央部に南側から入城するための道路が設けられ、棚①~棚⑭を左右に配した棚田状曲輪群があります。その中で棚⑥は小規模な桝形を形成し、土塁②・縦堀⑩と帯⑦で区画されている棚②は入口部の中心的な施設とみられます。

この曲輪群の西側の丘陵には南北130m、東西63mを測る不整形の西曲輪Ⅰが存在し、東斜面に帯①~帯⑤の帯曲輪群、北西斜面に小規模な縦堀③~縦堀⑨を多用した中核をなす曲輪です。さらに、棚⑤の虎口を入ると西曲輪Ⅲがあり、西曲輪Ⅱと接続する西斜面には棚⑮~棚⑰の棚田状曲輪がみられます。そして、二の丸の虎口に置かれた西曲輪Ⅱは西側縁辺に帯曲輪⑧を配置した89m×42mの方形状の曲輪で、城内の侵入を防備する施設と考えられます。

 

(5)南曲輪群

岩出山高校の南丘陵に分布する遺構群を一括したもので、南北130m、東西278mを測ります。東西の尾根を弓なりに横断する土塁①と土塁②で南北を区画したもので、土塁の直下には5m~7mの急勾配の人工崖で遮断しています。この崖面は縦堀の延長にあり、土塁とともに本丸や二の丸跡との境界となる重要な防御施設です。

遺構は、土塁内側の92m×20mを有する斜①と82m×26mをなす斜②の東西に長い斜面テラスと一段高い南曲輪Ⅳで構成されています。二者の斜面テラスについては、北側縁辺が学校建設による工事の際に削平され、3m~4mの段差となっています。一方、南曲輪Ⅳは土塁面に小規模な物見③が付随する一辺50mの施設で、北側が学校建設によって削られています。南北長の長方形プランを占めていたと考えられます。この曲輪を含め、斜①・斜②らは後述する北曲輪群の棚田状曲輪群とともに東曲輪群の曲輪Ⅳと曲輪Ⅳを結ぶ馬蹄形状に配された二の丸施設の可能性があります。次に外郭施設としては、縦堀①と土塁③で区画された南曲輪Ⅰが重要になります。小高い楕円形の物見②と斜③を飲み込んだ長方形プランで、東西100m、南北52mを測り、南面側に帯曲輪⑦と方形状の斜面テラスを配置しています。そして幅18m、長さ54mを測る薬研堀形態の縦堀①の西側に72m×52mの南曲輪Ⅱを挟み、大規模な物見台①には南に帯①~帯④の帯曲輪群と斜⑧~斜⑪の帯状を呈する斜面テラスを配備したものです。物見①の北側は幅15m~20m、深さ5mの縦堀②で区画したもので、44m×38mの平坦面から底辺までは5m~8mの高低差を測ります。防御施設を伴っていることで物見以外の目的で築かれた可能性も考えられます。

さらにこの物見の西側には、竹駒神社と関連施設に接続する68m×51mの南曲輪Ⅲが存在します。神社の目の前には二の丸から城内に通じる登城口(南門)があり、注目される曲輪群です。この曲輪群を絵図で比較すれば、下屋敷に相当する可能性があります。

(6)北曲輪群

縦堀①と縦堀②の大規模な空堀で区画された内部に備えられた曲輪群で、南北382m、東西300mの範囲としました。縦堀は箱堀形態を示すもので、先端部が交互「L」字状に配して虎口(南門)を形成しています。縦堀①は南曲輪群までの尾根を堀削するように地形に沿って掘られており、西曲輪群の中心部あたりで人工崖となるが、南曲輪群で一部縦堀に戻すと、すぐに急峻な崖面に移行するといった自然地形を利用した上手な造りとなっています。堀と崖を含めた全長は405mで、堀幅は15m~22mをなし、深さ及び崖面を含む比高差は5m~7mを測ります。

一方、縦堀②はしっかりと掘られており、物見①と物見③で複合するものの縦堀⑥までが250mで、堀幅は13m~25mで、深さは4m~7mとなっています。

次に、虎口から城内に入ると南北182m、東西26m~65mの広大な北曲輪Ⅰが存在します。案内図には二の丸跡と記されており、北側を「ダルマ広場」、南側を「町章広場」と区分された平坦地で、公園整備によって大きく削平されています。縦堀②に接する縁辺部には、僅かに当時の痕跡を残す土塁④が確認され、縦堀①に残存するような幅4m、高さ2mの土塁が西側縁辺に備わっていたと推測されます。この曲輪の南斜面に配置されているのが棚①~棚⑧の棚田状曲輪群で、幅広のテラスを有するのが大きな特徴といえます。残念ながら棚③や棚⑥をみると南側が岩出山高校のグランド整備によって削平されていることが判ります。

ところで物見②の中央に現存する石清水八幡大社については、伊達政宗が米沢の成島八幡神社から分身を遷座した場所と伝えられており、物見台の置かれた棚⑤の平坦面は八幡平と称されています。

さらに、縦堀②の外郭には、48m×50mの北曲輪Ⅱを中心とした曲輪群が谷状の沢に沿って分布しています。縦堀③は沢を堀削したもので、土塁⑨と接して薬研堀となっています。そして北曲輪Ⅱに進入する道路が縦堀⑤の縁を通り、北山麓へと通じています。この道路の東斜面に二条の帯曲輪と土塁⑤が置かれています。また、縦堀②の西縁辺には土塁状に整形された馬背が走り、40m×18mの楕円形状を示す物見①に連絡しています。物見①の直下には斜面テラス①と縦堀④が置かれています。堀を隔てた北側には物見③が設置され、北側は急峻な自然崖が迫り、東側は縦堀②と接続する縦堀⑥の薬研堀で内川に接続し、西側の傾斜面には土塁⑦と帯②が備わっています。この外郭施設は、北側進入口を警備するために設けられた可能性があります。現況は、帯⑦から物見①を通り、縦堀②の掘り底から北曲輪Ⅰに通じる公園用の散策道路が整備されています。

(7)岩出山城の構造と特徴

岩出山城の縄張図を作成する前は、城山公園を整備する際に大きく削平されたことで、当時の痕跡を探すことは困難であると考えていたが、作図しながら観察すると、意外と情報が残されております。特に今回本書で使用した北曲輪群の外郭遺構や西曲輪群、南曲輪群には政宗時代の遺構と推測される遺構が手付かずのままに存在することは、大きな収穫でした。ここでは、縄張図を作成した個人として岩出山城の特徴と米沢盆地に残る政宗期の城館跡と比較しながら私考を述べておきます。

縄張図全体からみると東曲輪群の東曲輪Ⅰと東曲輪Ⅱが絵図で表す山城となります。その東曲輪群の西側山麓に配置された東曲輪Ⅲ~東曲輪Ⅳ、堀切を隔てた東曲輪Ⅰ及び棚田状曲輪群、さらに南曲輪群の縦堀内部の3テラスを含めた遺構群が馬蹄形状に配されており、これらは二の丸跡に相当する可能性があります。山城「主郭」と二の丸跡は、北曲輪群の南端に虎口を開く左右の堅固な縦堀と土塁で守られています。南からの登城口には、西曲輪群と南曲輪群を備えており、これらは北曲輪群の外郭施設とともに三の丸に相当する遺構群と考えられます。また、今回の南曲輪群は絵図に示された下屋敷、東曲輪の南山麓に広がる曲輪と岩出山小学校は蔵屋敷に符号すると判断されます。

次に細部遺構であるが、西曲輪群にみられる棚田状曲輪群は、16世紀後半頃に普及した遺構群で、米沢市鷺城・同天狗山館、南陽市宮沢城等の大規模山城の根小屋に多く用いられるものです。同様に西曲輪Ⅰの東斜面と南曲輪群の物見南斜面に多用される帯曲輪群も米沢市片倉山館・同早坂山館等の特徴的な遺構です。地形に沿って堀削された縦堀も米沢市舘山城、南陽市二色根城、白鷹町荒砥城、福島県桑折西山城西館等と共通する特徴であります。

ただし、北曲輪群の幅広の棚田状曲輪や二の丸を構成する遺構は宮城県丸森城に多用される特徴で、政宗以前の遺構の可能性もありますが明確にはいえません。このように岩出山城には研究する素材が沢山残っています。是非、正式な測量図や調査が進むことを願います。最後に、この本書を通じ、伊達政宗公の生誕450年を祝し縄張図を捧げます。

5.仙台城「仙台市青葉区」(大沢 慶尋)

慶長5年(1600)12月24日伊達政宗は、上杉領攻めの前線基地である北目城(仙台市太白区東郡山)より千代城(もと国分氏の城)へ赴き、自ら縄張始めの儀式を行ない、漢字を「千代」から「仙台」へと改めた。翌正月11日より築城の土木工事が開始された(『貞山公治家記録』)。それでは、政宗はなぜ仙台の地を新たなる居城に選んだのであろうか。

関ヶ原の戦を前に徳川家康は政宗にいわゆる「百万石のお墨付き」といわれる領地加増に関する「覚」(仙台市博物館所蔵)を与えていたが、それが果たされたならば仙台は新領地の真ん中になるはずであった。また、仙台は東に広大な平野が開け、太平洋に近く、奥州街道が走り将来の発展性の高いところであった。では、その仙台の地の中でもなぜ青葉山のこの地を政宗は選んだのであろうか。

南は約80mの深さの竜の口峡谷、東は64mの断崖と蛇行する広瀬川(天然の外堀の役割)、西は大深沢・本沢という深い沢と丘陵地帯という三方を自然の地形に囲まれたこの地は、まさに天然の要害であり難攻不落の立地にあった。関ヶ原の戦が終わったとはいえ、以降も上杉領を切り取ろうと出兵していた政宗は、いまだ戦乱の世にあったのである。近年伊達氏の城であった舘山城が発掘調査の成果と国の史跡指定により大きな脚光をあびているが、その小樽川と大樽川に挟まれた舘山城の立地が、広瀬川と竜の口沢に挟まれた仙台城のそれによく似ていることは、政宗の選定理由を考える上で大いに注目すべきであろう。

「仙台」の字は、唐詩選『三体詩』の「韓翃」中の「同題仙遊観」に、「仙台初めて見る五城楼」とあることに由来すると考えられる。「仙台」は、「古代中国の首都長安の西にある仙人の住むという高台」で理想郷とされていた。この「仙台」の字への改変により、築城・仙台開府にあたっての政宗の理想としたものがうかがえる。尚、政宗が仙台城本丸の地に巽櫓(たつみやぐら)、艮櫓(うしとらやぐら)、詰門(つめのもん)の西脇櫓・東脇櫓、酉門(とりのもん)脇櫓の5つの櫓を建設したのは、この「五城楼」を出現させることによりこの地に神仙世界を出現させようとしたものと考えられる。

また、政宗の幼少の頃からの師であった虎哉宗乙禅師の『斑寅集』(覚範寺所蔵)には、「政宗公は数年前仙台の新地に築城した。城の飛楼(櫓)と湧殿(御殿)は一々金銀で飾られている。何と美しく大きいことか、何と美しく立派なことか、東国の洛陽城(中国王朝の繁栄した首都洛陽の城)というべきである。」という意味の言葉が漢文で綴られている。虎哉と政宗の思いは一体とみられ、二人は仙台城・仙台を日本における東国の洛陽城・洛陽にしたいと願い、その実現に向け尽力したのであった。尚、「城の飛楼(櫓)と湧殿(御殿)は一々金銀で飾られている」という言葉は「櫓の軒丸瓦・軒平瓦に金箔瓦を使用していた事実と、大広間などの御殿が金地彩色・銀地彩色の障壁画や金鍍金の金具などで飾られていた事実」を表現しているものと認められる。

武家書院造の大広間は、仙台城の中心的建物で、豊臣秀吉の聚楽第の大広間がモデルとも考えられるが、色代部(鹿の間がこれに相当)をもつことから、より古式の大広間建築である。京都より大工棟梁梅村彦左衛門・彦作父子をよび作らせ、彦左衛門の懇望をうけた天下無双の匠人・紀州の刑部左衛門国次を招聘し作事にあたらせた。国次率いる集団は主に彫刻を担当したとみられ、国次は後に眠り猫で有名な日光東照宮の彫刻群を担当した左甚五郎と同一人物であるとの説がある。内部の金地彩色などの絢爛豪華な障壁画は、上方より招聘された狩野左京率いる画師集団が担当した。政宗は、大崎八幡宮、瑞巌寺、そしてこの大広間の建造により、桃山建築を上方よりはじめてみちのくの地に導入したのであった。大広間は、秀吉の「見せる城」という「織豊系城郭」技術の象徴といえる城郭概念を導入した城郭御殿であるといえよう。畳敷き部分260畳、周囲の廊下を含めると430畳ある豪壮華麗な大広間は、慶長15年(1610)完成をみた。

大広間には、政宗自身の座る「上段の間」、そしてその北隣りに天皇・将軍のためといわれる「上々段の間」が存在した。

上段の間の床には、鳳凰が描かれていた。明治初期の廃城令に伴う本丸破却の時、屏風に仕立てられ、現在観瀾亭松島博物館の所蔵となっている。鳳凰は中国の伝説上の鳥で、皇帝を表す。東の方に君子が現れ、理想的な政治が行われ平和で豊かな聖なる時代が実現した時にのみ飛来し、君子を祝福する瑞鳥である。これが居城を仙台に移した政宗の目指すもの・理想であり、「東国の洛陽城」=「仙台城」の築城、仙台開府にあたって、政宗がその目指すところの理想を家臣に伝える為、家臣を集めて対面する御座所である「上段の間」に据え、視覚化したものがこの画面であると考えられる。

本丸の東側の崖には、せり出すようにして「懸造」が建てられていた。懸造は伊達政宗の米沢城にも存在していたことが『伊達天正日記』の天正15年の記事にしばしばみえる。さらに古くは中世伊達家が伊達郡を本拠としていた時の茶臼山北遺跡(梁川城本丸跡の東)の発掘調査でも池の上に建つ懸造とみられる遺構・木材が検出されている。懸造は「伊達家=懸造」といえる伊達家を象徴する伝統的建物であり、仙台城の懸造は破損などしてもその都度修復・再建され明治維新を迎えた。伊達家にとって特別重要な意味をもつ建造物といえ、政宗による「伊達氏系城郭」の継承を意味するものとみなせる。

政宗は慶長14年(1609)7月24日、懸造の座敷に出て、城下各所に配置した総鉄砲組につるべ打ちを行わせ、ここから眺めた(『貞山公治家記録』)。軍事演習の検分である。

また、政宗は慶長18年7月21日、懸造の座敷にてご相伴の者たちを招いて初鮭の料理をふるまった。この初鮭は牡鹿群湊(石巻港)より前日に届いたものだった(『貞山公治家記録』)。『伊達天正日記』の記載よりうかがえる米沢城における懸造の一つの機能、すなわち「当主が家中とともに飲食し、心を近づけ人間関係を深める饗応の場」としての側面は、仙台城のそれにおいても継承されていたのである。

尚、全国の城郭における懸造は、福山城(広島県)の湯殿がそれであり、苗木城(岐阜県)にもあった。福山城のそれは遊興的性格の建物であり、苗木城のそれは建物面積確保のための構造上の問題で結果としてそうなった建物と解釈できる。しかし、仙台城の懸造はこれらとは全く異なる性格のもので、城下からよく見えるこの数寄屋風書院造の建物は、「城のシンボル」としての意味合いが濃厚で、天守を持たない仙台城の「天守代用」の役割を担っていたと考えられる。この性格の懸造は、全国諸大名の城郭においてほぼ唯一のものとして特筆に値しよう。

さて、最後に筆者は、仙台城について一つの新たなる解釈を示したい。建物を建てるということは、そこに施主の思想・理想が映し出されることは古今東西問わず常識的なことといえる。まず、広瀬川に架かる仙台大橋の仙台城下側のたもとから本丸を望むと、景観は第44図のCG復元画像のとおりである。巽櫓、艮櫓、詰門の西脇櫓・東脇櫓という4つの巨大な三階櫓と、堅牢な石垣が見える。櫓は戦闘的建物であり、石垣は戦闘が前提の構造物である。すなわち、外から見た場合、勇壮な「剛」の姿といえる。仙台城は「外は剛」の城である。

ところが、詰門より本丸内部に入ると様相は一変する。第45図のCG画像のように、書院造の建物など殿舎群が配置され、儀式儀礼の場、政務の場、日常の空間となる。内に入って見た場合、とても平和的で柔和な姿といえる。すなわち、仙台城は「内に柔」の城である。

仙台城は「外は剛」、「内に柔」。「和戦両様」の城なのである。実は「外は剛」、「内に柔」という考えは、政宗の幼少から死去するまで一生を貫いた一貫した行動原理であった。

『仙台武鑑』巻之一(仙台藩士佐藤信直が江戸中期に編纂)に次のようなエピソードが載っている。政宗は五歳の頃、寺院で不動明王を見る。「仏は柔和なものなのになぜこの像は恐ろしい容貌をしているのか。」と問う。僧が「外は剛、内に慈悲」と答えたところ、政宗はその言葉に納得した。

仏は本来柔和なものなのに、恐ろしい姿をしている不動明王に疑問をいだいた幼少の政宗。その質問に対する僧の答えは、世の中には悪というものがあるのでそれを懲らしめ戒めるために不動明王は恐ろしい「剛」の姿をしているが、その内面は「慈悲」に満ち「柔和」であるというもので、その答えに政宗は幼いながらも納得したというのである。政宗が幼少時より利発であったことを物語るエピソードだが、この「外は剛、内に慈悲(=柔)」という思想はその後も政宗の一つの行動原理となって一生を貫いていくのである。

老年の政宗の小姓をつとめた木村宇右衛門が政宗の言動を書き記した『木村宇右衛門覚書』(仙台市博物館所蔵)は、有る時に政宗が話したこととして、次のように記している。

大将の国家を治め人を愛すること、たとへば不動明王の形のごとし。外には忿怒(ふんぬ)の相を現し、内心慈悲の恵み深し。

「国家を治める大将たるものは、国家を治めること、人を愛すること、例えて言えば不動明王の形相のごとくあるべきだ。外見は忿怒(おおいなる怒り)の相をしているが、内心は慈悲の恵み深くあるべきだ。」といった意味である。

仙台城は、政宗の一生を貫いた「一国の大将としての行動原理」、すなわち「外は剛」、「内に柔」をまさに目に見える形で具現化したものであり、仙台城には政宗公の思想・理想そのものが宿っているのである。要するに、「仙台城=伊達政宗」そのものなのである。