舘山城と主要遺跡

1.成島館「米沢市広幡町成島」

丘陵を利用した単郭式の館跡で、中央北側に成島八幡宮が鎮座しています。館跡は、南と東側の斜面を削り出して整形したもので、平坦な西側及び北側に土塁と堀を「L」字状に設けた丘城形態です。規模は100m前後の一町規模に分類され、西側の大手口は二重の土塁で桝形と虎口を形成しています。そこから南に向かう堀底道は舘山城方面へと延びています。根小屋は南山麓に面した場所で、土塁と溝でテラス状の曲輪群を配置したものであり、居館の南には龍寶寺が存在します。時期は、初期武士団が台頭する概ね鎌倉期~室町前半頃と想定され、正安2年(1300)の棟札ともほぼ一致しています。成島八幡神社の縁起には、蝦夷平定に難渋した朝廷軍が、宇佐八幡宮から勧請し、平定成就を祈願したとされています。以来、成島八幡神社は武門の神として置賜地方を支配した長井(大江)、伊達、上杉と歴代領主の崇敬を受けています。中でも、天正19年(1591)岩出山に移された伊達政宗は、成島八幡神社の分霊を奉じて米沢を去り、慶長12年(1607)にこれまでの大崎八幡神社(国宝)と合祀して遷座しています。成島八幡神社に残る棟札は、長井宗秀が八幡宮御宝殿を修理した正安2年(1300)を最古に、永徳3年(1383)の伊達宗遠による拝殿修理、天文22年(1553)の伊達晴宗・天正16年(1588)の伊達政宗の上葺成島庄八幡宮御寶殿、元和7年(1621)上杉景勝の八幡宮上葺修理など、明治32年(1899)までの48枚が残されており、この中で中世から江戸時代に記された43枚が市の指定文化財となっています。

2.片倉山館「米沢市大字上長井字片倉山」

舘山城から南東側に2.2km、斜平丘陵の羽山・愛宕山の山麓に羽山愛宕神社が鎮座しており、何れも中世の時代から信仰の対象として祀られてきた由緒ある神社であります。この神社のほぼ南に立地するのが片倉山であり、伊達政宗の腹心片倉小十郎の館との伝承が残っています。愛宕山から東側に延びる尾根の先端部に展開する山城は、南北250m、東西190mの規模を有しており、標高404m~408mの平坦地が主郭にあたります。中央を縦堀で区画した南北70m、東西30mの主郭を挟むように南北の緩斜面に対して帯曲輪群を多用するのが特徴です。東側は急激な崖面で、横断するように道路が設置されています。途中に土塁を「L]字状に配置した桝形が二箇所配置され、ここが城の虎口となります。こうした複数の桝形や虎口を配するのは伊達型山城の典型的な特徴で、天正13年(1585)に芦名攻略のために伊達政宗が築城した桧原城等とも共通しています。さらに道路を下ると麓の大手口に到着します。ここには、根小屋と見られる「堤端屋敷」と寺院を示す「光明寺」の字名が残っています。片倉山館は居館的存在として米沢愛宕山館及び斜平羽山館と連携を保ちながら信仰と密接に関わっていたものと推測されます。

3.米沢愛宕山館

標高559.5mの愛宕山に位置するもので、南北120m、東西100mの範囲に存在します。全体形が不整形を有する楕円形状の平坦地で、北側の曲輪Ⅰは、南北30m、東西60mの長方形をなし、西北側に「L」字状に配された土塁と西側は縦堀で区画された物見台が付随しています。土塁の東側には愛宕神社が設置され、この場所が主郭と推測されます。東側の虎口は、片倉山館に通じる道路で、かつての参道と考えられます。曲輪Ⅱは、副郭として存在していたとみられ、南北80m、東西40mの広さを有し、南端の虎口は、斜平丘陵の峰々から関町に抜ける軍道として機能していたと考えられます。城形態は、14世紀後半頃の成島館に比例されることで、斜平羽山館より先行して構築されたものとみられます。また、山形県内に存在する山城の中で平地との比高差が最も高いランキングを示すと一番が米沢愛宕館で270m次いで斜平羽山館の240m、鶴岡市小国城の230mとなっています。

4.斜平羽山館「米沢市大字遠山字羽山」

標高534.8mの羽山「羽山神社」山頂を平坦に削り出して整形した物見台形式の山城で、南北50m、東西90mの規模をなしています。主郭は東西27m、南北17mと狭く、羽山神社が祀られ、西側に物見台があります。物見台は、短径9m、長径16mの方形状で、南面から北面側にかけて「コ」の字状の帯曲輪が特徴です。西側と北側は急斜面を削り出した人工斜面で、南には帯曲輪と小規模な腰曲輪が付随します。虎口は東端にあり、北東側の片倉山館に通じる道路が延びており、南側の参道は後世のものです。斜平羽山館は、中世初期頃(鎌倉期)に山岳信仰「吾妻・蔵王・羽山(葉山)信仰等」として成立した羽山神社を後の伊達氏が愛宕神社と共存させて山城としての機能を持たせたものとみられ、居館となる片倉山館を起点に米沢愛宕館とともに国境警備を前提とする重要な役割があったものと推測されます。

5.覚範寺廃寺「米沢市大字遠山字覚範寺」

舘山城と片倉山館の中間に位置するのが覚範寺跡です。伊達輝宗は天正13(1585)年10月8日に二本松城主畠山義継の裏切りによって非業の死を遂げます。政宗は翌日の9日に信夫郡佐原村(福島市)の寿徳寺で火葬し、遺骨は夏刈(高畠町)に埋葬されます。法名は性山受心大居覚範寺殿。政宗は翌14年、父輝宗の菩提を弔うために舘山城から南東1.5キロの遠山村の斜平山麓に覚範寺を建立します。開山和尚は、伊達政宗の師匠で臨済宗の高僧として知られた資福寺住職の虎哉宗乙禅師です。その際に、輝宗の腹心であった遠藤基信「医国院」を始め、須田伯耆「撑月庵」と内馬場右衛門「保福庵」の殉死した3名の墓所も建立されています。

天正19年(1591)、政宗は岩出山に移ると覚範寺もゆかりの寺とともに米沢から岩出山、さらに仙台と移します。廃寺となった覚範寺については、昭和62・63年に米沢市教育委員会が発掘調査を実施し、輝宗の墓所「覚範寺殿」と推測される六角堂の建物痕跡をはじめ遠藤基信を含む三人の墓所や石碑、供養塔、手焙、水指、古銭等の遺物も検出されています。

特に、一周忌供養として経塚に埋納された一字一石経1367点の中には虎哉和尚の筆とみられる経石も含んでいました。

6.天狗山館「米沢市小野川町字天狗山」

小野川スキー場に隣接した標高585mの天狗山から北斜面を利用した山城で、南北1100m、東西750mに及ぶ大規模な山城です。

山城は、墢形状に張り出した字天狗山を境として、東側の字狐森・大田山・菅沢の沢合と西側の字立石山に配備された東西の曲輪群で構成されています。遺構は、沢合に設けられた道路を中心にテラスを階段状に配した棚田状曲輪群で構成するのを特徴としています。正式な図化をしていない現状では明確にできないが、棚田状曲輪群の中には、50m~100mを有する主要曲輪が複数存在しており、これらの一部が主郭を構成しているものとみられます。

天狗山館は、山頂付近に主郭を配置する通常の山城ではなく、沢合に抱かれた中に曲輪群を構成するものであり、攻撃を重視した造りとなっています。注目されるのは、字天狗山周辺の山岳信仰に関わる遺構群であり、経塚や池跡(鏡池)、胎内窟(穴)等が点在する空間(行場)であります。これらは前方後円形経塚の形態より13世紀頃と推測され、山城以前に遡るものであり、築城時に存在を意識していた可能性もあります。

さて、天狗山館の周辺には、図示したように東1.3kmに赤芝館、直下のおその川対岸に館残館と居館跡、南側の山嶺には斜平羽山・愛宕山館・片倉山館が立地しています。いうまでもなく、会津蘆名氏と緊張状態が続いていた伊達輝宗・政宗らが蘆名氏を意識して築いた城館跡で、中でも天狗山館の存在は、舘山城を護るといった前線基地の役割があったものと推測されます。ただ、天狗山館に関しては、初めて今回確認された新規の遺跡であり、どの文献にもその存在は知られていません。遺構の配置や構造より、一時的なものではなく、ある程度の期間に亘って機能していた城と考えられます。依存状況も良好で、舘山城の解明や伊達氏の戦略を考える上でも極めて重要な山城といえます。

7.戸長里窯跡「米沢市大字入田沢字戸長里」

大字入田沢字戸長里に地元で「かわらげ坂」と呼ばれる場所があります。国道121号線が接する山麓で、文字どおり素焼きの焼物破片が散在する所からきた名称です。この存在に注目したのが陶芸家の水野哲氏であり、加藤稔氏の指導の下、まんぎり会(会長 手塚孝)が主体となって昭和60年に発掘調査を実施しました。窯体は、竹駒山のなだらかな東斜面を利用して築窯したもので、全長17.65m、最大幅1.8mの穴窯で約30~35度と当時としては比較的小規模な半地下式の窯体であります。

壁面の確認で少なくも3回ほどの塗替補修が観察され、短期間に多くの火入れを行ったものと推測されます。それを物語るように多量の破損製品と窯道具が周辺から出土しています。

出土した遺物は、美濃の流れを汲むもので擂鉢・小皿等の日用雑器が大半であるが、茶碗・茶入・水指・香炉等の茶道に関するものが含まれているのも特徴です。

また、室町期の穴窯調を残す鉄釉の茶碗・小皿・擂鉢等と好対照をなす朝鮮唐津、織部緑釉の香炉・鉢類が含まれることで、窯の年代をめぐっては戦国期と江戸期との二説に大きく分かれたが、調査担当のまんぎり会は水野氏を筆頭に戦国期に伊達政宗が築いたと推論(当時の政宗の動向から天正18(1590)年7月前後か)しています。

そして、その仮説を裏付けるかのように、伊達関連遺跡の発掘調査を進める中で、戸長里窯で焼かれた製品が米沢市を中心に次々と発見されてきています。その代表的な遺跡を列挙すれば、米沢城東二の丸、万世原田館、大浦C遺跡、堤屋敷遺跡、普門院館、荒川2遺跡、舘山東館、延徳寺遺跡、台ノ上遺跡、一ノ坂遺跡(舘山平城)、比丘尼平遺跡、大南遺跡、川西町田制館等16遺跡から検出され、戸長里製品が広く伊達家臣らに給付されていたことを物語っています。

鷺城「米沢市万世町桑山字早坂山」

舘山城から東側約8.4kmに位置します。鷺城は、拡張発展型の山城で、東西719m、南北920mの規模を誇ります。城郭は、第1山城と第2山城、第1居館と第2居館から構成し、第1山城が所謂「早坂山館」、居館は北側山麓(堤屋敷)と推測しています。その後、居館を西山麓の谷間に移動して、方形のテラス群を階段状に多用した第1居館を形成します。一方、山城は北側の尾根に物見台を置くことで、西側の低い丘陵先端部に第2山城を新たに構築し、南谷間に長方形テラスを階段状に多用した第2居館を置きます。この第2居館の最終形態が鷺に類似することで鷺城の名称になったとされます。「鶴城地名選」文化元年(1804)によれば、1.戸坂山館(大津土佐守)2.土肥館(土肥備中守)3.土肥単館(土肥多備中守)4.内鷺館(子梁川泥藩)5.鷺城(不詳)の館主名がみられます。こうした、複合型の山城は、重要な街道沿いに配備される場合が多く、高畠町の館ヶ崎館や南陽市宮内城等が知られています。大津土佐守・子梁川泥藩の名前より、伊達晴宗、輝宗期頃に成立したものと推測され、米沢東部を守る重要な拠点と推測しています。

9.長手館「米沢市大字長手字城山」

舘山城から東北東約9.6kmに位置します。標高370mの城山と呼ばれる山稜と南側に広がる入江状の平坦部全体が、城の領域となっており、南北500m、東西160mを測ります。伊達氏家臣の網代伯耆の居館と伝えられているが、平成9年の長手4号墳の調査では、石室内部より骨蔵器に転用した古瀬戸瓶子1点が検出されています。古墳を墳墓として再利用したもので、城の成立は13世紀代まで遡る可能性があります。

山城は、テラス状の曲輪を巴状もしくは積み重ねるように配置する「重餅型」の主郭が特徴で、南山麓から平地にかけた入江状の範囲に土塁と空堀で区画した平城(居館)が付随しています。平城は土塁と空堀で区画された主郭と西側に隣接する曲輪Ⅱと大手口を挟んで南側に曲輪Ⅲと曲輪Ⅳで区画され、大手を挟んで左右の曲輪が扇状に開くのが特徴となります。平城の全長は幅270m、幅160mで、主郭は南北110m、東西75mを測ります。

山城と居館が隣接して共存する例は、伊達輝宗期に盛行した形態で、長手館跡はその中でも理想型としての評価が高く、将来の史跡候補としての検討資料となっています。

10.笹野山館「米沢市大字笹野字舘山」

舘山城から南東に約4.4km、標高660.2mの笹野山の中腹から東側に張り出した舌状丘陵の先端部に構築した山城で、小字名が「舘山」となっています。遺構は、標高390mの丘陵の最頂部に1m未満のテラス状曲輪を同心円状に配した曲輪群を中心に、東西140m、南北90mの規模を測ります。主郭は長径18m、短径12mの狭い不整方形で、南側は急勾配の人工斜面を有し、緩やかな北側は帯曲輪を二重に配置して左右の沢合を防御しています。東側は北東部に「S」字状の桝形と南に隣接した二重堀に連動した縦堀を配し、主郭の西側も土塁と縦堀、さらに堀切があります。曲輪の構成は、重餅型の主郭を起点に、北に面した扇状の曲輪Ⅱ、東に面した幅30m、長さ80mの曲輪Ⅲとなっています。城主は、伊達家家臣遠藤兵庫との伝承があるが確証はありません。

一方、笹野山館の麓には米沢市有形文化財の「笹野観音堂」が存在します。坂上田村麻呂の開基とされ、大同元年(806)に法相宗の徳一によって中興されたという由緒を伝えています。別当寺は真言宗の古刹の長命山幸徳院で、中世には存在していた寺院であります。

寺院の南側には、居館(根小屋)と見られる館ノ内館Aが存在しており、寺院を含めた一帯が館に関わっていた可能性があります。主郭の形態は、長手館や万世羽山館と同類の重餅型を基本としており、16世紀中頃から後半期に成立した伊達輝宗期を代表する山城です。

11.二色根館「南陽市」

白竜湖の西側に聳える丘陵に築かれた山城で、南北462m、南北228mを測ります。城の北側は二色根街道、西側は小滝街道を経由して最上に抜け、北直下に最上街道(国道13号線)を望む重要な要所となっています。城は丘陵の館ノ山やと薬師山と称されるに箇所に存在するもので、東西に長い館ノ山を中心とした西曲輪群と南北方向の薬師山を利用した東曲輪群で構成されています。

前者の西曲輪群は、本丸となる土塁と空堀で40m×56mの方形に区画した曲輪Ⅰ、その東側と北側に「L」字に配した空間が曲輪Ⅱであり、二の丸跡と呼ばれています。この二つの曲輪は東側に尾根を横断する全長98mの縦堀、西側に縦堀と土塁を二条に配し、急峻な北側にも二条の帯曲輪を備えたものです。南側は、大手口にあたるもので、土塁と空堀を併用した中に縦堀を複雑に組み合わせた虎口を設けています。ここまでの主郭域だけで、南北98m、東西170mの広さを有しています。さらに西側斜面にもなだらかな傾斜面を土塁と竪堀で区画した東西85m、南北55mの曲輪Ⅲが置かれています。内部は微高差のテラスが階段状に配したと思われるが、埋没したことで明確にはできません。ところで、曲輪Ⅰの土橋付近と曲輪Ⅱの縦堀上部の崩れた箇所から石垣の一部が露出しているのが確認されます。どうも意図的に埋め戻しているような感じで、米沢の舘山城と共通するのかも知れません。

後者の東曲輪群は、館ノ山山頂に置かれた曲輪Ⅳと薬師山に展開する曲輪Ⅴで構成しています。曲輪Ⅳは東西を接続する重要な遺構で、尾根に階段状テラス群、南北は連続する帯曲輪群、西の谷に縦堀を配して遮断しています。南北端を複数の土塁と縦堀、帯曲輪を配置した曲輪Ⅴは東西79m、南北98mの規模を示します。内部は棚田状曲輪を斜面に展開したもので、最頂部の平坦面が主郭とみられます。棚田状曲輪は通常、大規模な山城の根小屋に伴う施設で、東曲輪群のように堅固な区割をもつ例はありません。登城口は三ケ所で、南沢沿いの南口、曲輪Ⅳから北側への北口、曲輪Ⅲの南裾に接する西口となります。

そして、今回の調査で注目されたのが石垣の存在です。ここ二色根地区は「二色根石」の産地として有名な地域です。今回発見の石垣とは直結はしないとしても、気になるところです。今後の調査に期待したいと思います。

このように二色根館は、街道防備の重要な拠点として、何度かの拡張を繰り返しながら経過したものと推測されます。城主としては、伊達輝宗の家臣粟野喜佐エ門、粟野次郎藤原義広の居城といわれています。

12.高畠志田館「高畠町大字ニ井宿字下宿」

屋城川と大滝川が分岐する志田山から南に張り出した丘陵にあたり、四方が展望できる絶好の場所に存在します。城は南端の尾根を利用して構築したもので、中央部分を平坦に整地して主郭としたもので、東西南北に延びる四ケ所の尾根に遺構を刻んでいます。全長は、南北235m、東西262mの範囲に分布しています。

主郭は西側と北側に小規模な土塁を設けた南北22m、東西63mの規模をなしています。その南に延びる南曲輪群は二条の堀切と11基の腰曲輪を多用しています。西に連なる曲輪群の尾根には堀切3本で遮断し、小規模な帯曲輪と馬背曲輪で西からの侵入を阻止しています。そして急峻な崖面が接する東曲輪群は多用する腰曲輪群と帯曲輪を併用したもので、主郭に近い腰曲輪⑮に石垣を設置しています。石垣は、凝灰岩の切石と割石を用いたもので、長年埋められていたものが露出したものとみられます。他の遺構にも切石の痕跡が認められることで、主郭に近い箇所に石垣が備わっている可能性があります。帯曲輪は東斜面を横断するように北の曲輪群と連絡し、中央曲輪群の登城口へと接続しています。一段低い北曲輪群も腰曲輪群で防備し、東の備えを行っています。そして、登城口を守る曲輪群で、川に沿って連続する楕円形状の斜面テラス、大手口に腰曲輪、人工斜面と帯曲輪で道路を配し、中間地点に井戸曲輪を備えています。そして、腰曲輪⑥には南北朝に建立されたとみられる板碑があります。居館と推測される根小屋は、屋代川の対岸と推測されるが確認されていません。

さて、志田館については、元亀2年(1571)に伊達輝宗が新宿に陣し、この館あたりから、最上義光の支城「中山城」に攻めいったとされています。城主としては大畑吉衛門、遠藤盛利、志田義治の所説があるが定かではありません。尾根に小規模な腰曲輪を多用するのは、16世紀前半の特徴であり、伊達晴宗以前から備えられていた可能性もあります。保存状態も良好で、石垣も含め解明したい山城の一つです。

13.館山館「川西町大字玉庭字館山

犬川に高野沢川が合流する西側に突き出た丘陵に立地するもので、所謂「玉庭丘陵」から延びる尾根の先端部にあたります。標高433.6mの頂上から麓までは直線で約780m、比高差が140mを測ります。大手口は西側に張り出した尾根の麓で、つづら折りに延びています。登城口を進むとほぼ中間距離のあたりで三方に別れ、右は山を囲むように北東に進み、根小屋方面に延びています。この山麓には天文21(1552)年創建の法泉院があり、館跡との関連を示唆する向きもあります。

左は南西側に丘陵を巻いて、館の西側に廻り込んでいることで、搦手に通じるものとみています。中央のルートが館の虎口に接続する本道で、南東隅から三ケ所の虎口、桝形をへて主郭へと入ります。山城は、尾根に沿って一直線に築かれており、南北164m、東西133mの範囲となります。頂上部に立地する南北22m、東西11mの主郭を中心として、上下に配した帯状のテラスが主要曲輪群であり、斜面に複数の帯曲輪を多用するのを特徴としています。さらに、北側を除く三方の帯曲輪に接続するように、土塁と空堀を併用した障壁を廻らしています。南側に面した土塁に関しては、複数の空間を開けた虎口を意図的に設け、敵の侵入を混乱させる工夫が見られます。また、西側の小規模な尾根にも、縦堀と土塁を設け、敵の侵入を意識した防備が施されています。

14.小国山城「小国町大字小国小坂町」

小国山城は通称「城山」と呼ばれ、標高527mの横根山から東に張り出した舌状丘陵に存在しています。北側に横根スキー場、東は急峻な崖となっており、直下に国道113号線と横川が接しています。城は、南山麓の尾根裾から標高240mの丘陵頂上部までの南北400mの長さに分布しています。

大手口は沢に面した山麓から尾根沿いに道路が築かれ、山頂の主郭に至るまで5箇所の曲輪群を設けています。最初の曲輪群Aは大手口に築かれ、西斜面の腰曲群が特徴です。大手口から100mほどの曲輪群Bは、道路の東面に配したもので、斜面テラス4箇所と帯曲輪で構成しています。一部は、崖面及び鉄塔工事の削平を受けて改変されています。ほぼ中心地点にある曲輪群Cは、虎口と縦堀を伴うもので、崖面の尾根に腰曲輪群を多用するなど、主郭を意識しています。次の曲輪群Dは主郭の前に有する曲輪群で、南に虎口、北を縦堀で遮断し、東斜面に帯曲輪を階段状に配置しています。3ケ所の小規模な平坦地には建物が置かれた可能性があります。そして最後の帯曲輪Eが主郭を構成する曲輪群です。南北110m、東西65mの範囲に広がる曲輪群は、幅広の階段状テラスを配しながら、最頂部に洋ナシ状を示す30m×15mの主郭を設置したものです。幅広のテラスや帯曲輪を多用する特徴は16世紀中葉~後半にかけてみられる特徴で、米沢越後街道を守護する重要な山城といえます。

小国山城については、南方320mの横川河岸に築かれた小国城の詰めの城とされています。小国城は、土塁と堀で区画された城下町を形成する平城で、長井時代から存在し、伊達・蒲生・上杉と継続し、藩政時代には跡地を御役屋として利用していました。

15.小国城「鶴岡市温海町大字小国字町尻」

鶴岡市小国城は、庄内大宝寺(武藤)氏の南端の重要な支城で「楯山」標高348.5mの山頂部にあります。麓からの標高差は約235.5mで、庄内最大の比高差であり、庄内と越後を結ぶ小国街道が城跡の東麓の谷筋を通っており、江戸時代には庄内藩の関所・制札場が置かれていました。

城跡は、緩やかな「~」を描くように尾根沿いに東西486mの範囲に存在しています。山頂の曲輪Ⅰを中心に左右に開く尾根は、東側に一段下がった曲輪Ⅱと曲輪Ⅲを置き、西側は堀切で区画した曲輪Ⅳの四つの曲輪で構成しています。一方、曲輪Ⅲからややカーブを描きながら北東に尾根沿いに進むと城の桝形に相当する曲輪Ⅳがあります。

最頂部に築かれた曲輪Ⅰ「本丸跡」は長径32m、短径25mの長方形を示すもので、土塁を巡らせています。東側に設けられた桝形は、土塁を交互に配した外側に半円形状(馬出)の張出部分を設け、東側を除く斜面に幅広の帯曲輪を設置し、北東隅の尾根は三ケ所の堀切で遮断しています。東側の曲輪Ⅱ、曲輪Ⅲは、尾根を堀削して整形した斜面テラスの形状で、二の丸・三の丸と呼ばれています。ここから東に進む尾根には、テラス・堀切・虎口・馬背曲輪等の小規模曲輪群が続き、曲輪の東南側に登城道が取り付けられています。登城道は小規模曲輪群を境にして北側に折れ、東端の曲輪Ⅴ「駒立場跡」で折れ曲がって北麓に下がっています。駒立場跡は、城の入り口を守る桝形虎口で、上杉氏(志駄義秀)による大改修によって増設された防御施設と考えられています。

本丸の西側には、通称「西大屋敷」と呼ばれる東西65m、南北45mの広大な曲輪があり、居住区域と推定されています。小国城からは、小街道から越後方面への展望が開け、まさに出羽と越後の国境と街道を守る重要な山城であることが覗えます。こうした高い山城の本丸に土塁を全周するといった構造は、富山県以北の日本海側では珍しく、庄内地方における戦国時代を代表する山城として、平成14年12月19日に国指定史跡となっています。

小国城については、庄内を代表する山城であることから、伊達氏山城との比較検討するために、平成24年10月11日に本会が視察を実施した城館跡であり、参考資料として掲載しました。