伊達のストップリスト

(1)米沢城址と北谷地小路(米沢市)
米沢城は米沢市街地のほぼ中心にあり、本丸跡は現在の上杉神社の境内。戦国時代には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城という通説があるが、平成22年から発掘調査が行われ舘山城の存在が確認されたことから、伊達時代の本拠地は舘山だったのではないかという説も浮上している。2017年続日本100名城に選定された。

北谷地小路は米沢城の二の丸の南側の小路で天正17年(1589年)2月26日、伊達政宗が落馬をして骨折をした場所と考えられてきたが、これも舘山城の北館の谷地ではないかとの説もある。
(2)舘山城址(米沢市)
平成22年に開始された発掘調査により、戦国時代の伊達氏の本拠地との説が出され注目されている。城跡は平成28年3月に国の史跡に指定された。
(3)舘山寺
天文2年(1533年)伊達家重臣新田遠江守景綱が開基となり、舘山城の西側に建てたのが始まりとされている。その後、伊達家の移封、火災や土砂崩れなどにより享保6年(1721年)篠田其左衛門宜君が中興の開基となって建てられたのが現在の本堂とされている。舘山城の時代、伊達政宗(梵天丸)が疱瘡を患い闘病の折、乳母の片倉喜多が舘山寺の虚空蔵菩薩になんども足を運びお参りしたという言い伝えがある。
(4)片倉山舘址、笹野山舘址などの城砦群(米沢市)
斜平山(通称・なでらやま)の一部で愛宕神社向かう登山道がある片倉山に片倉山舘の遺構があり、片倉山という字が残っていることから伊達政宗の家臣、片倉小十郎が当主だったと考えられている。周辺には笹野山舘など無数の山城の遺構があり、「城砦群探索トレッキングコース」が設定されている。笹野山舘の真下には有名な笹野観音堂があるが、ここは伊達政宗が15歳の時にお参りしたと言われている。
(5)成島八幡宮(米沢市)
宝亀8年(777年)蝦夷討伐のためこの地に下ってきた大伴駿河麿により建立された。現在の拝殿は永徳3年(1383年)に伊達宗遠により造営されたもの。伊達氏の崇拝は厚く、伊達政宗が岩出山城に移った際には分霊を遷座させた。それが現在の大崎八幡神社となった。
(6)小野川温泉(米沢市)
天正17年(1589年)2月26日夕方に米沢城の南、北谷地小路で落馬して骨折。湯治のため訪れたのが小野川温泉です。小野川温泉は承和3年(836年)小野小町が発見し開湯とされている。
(7)天狗山舘址
2016年8月の現地調査により存在が確認されたばかりの山城趾。小野川スキー場に隣接している天狗山の北斜面を利用した山城。山城は撥形状に張り出した天狗山を境として東側の字狐森、大田山、菅沢の沢合と西側の字立石山に配備された東西の曲輪群で構成されています。2017年には計測調査がなされ、手塚孝氏により縄張図も作成されたがそれによると全長が2000メートルという大規模な山城であり、会津蘆名氏と緊張状態が続いていた伊達輝宗・政宗らが蘆名氏を意識して築いたものと推測される。
(8)支倉常長の生地(米沢市)
支倉常長は伊達正宗の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、およびフランシスコ系カトリック教徒となった。元亀2年(1571年)現在の米沢市関町立石で生まれた。2013年7月同地区にある米沢市立関小学校校庭内に、「支倉常長と関の立石」の案内看板が設置された。
(9)上杉博物館(米沢市)
平成13年(2001年)9月に、博物館・文化施設「伝国の杜」として県立の「置賜文化ホール」と合築されてオープンした。上杉鷹山などの上杉氏に関連する展示を中心に、伊達氏や市内の古墳に関する展示など江戸時代以前の展示も行なっています。
(10)ナセBA(米沢市)
2017年7月1日にオープンした文化複合施設。米沢市の中心市街地にあり、1階が市民ギャラリー、2階が市立図書館からなる。3〜5階は建物の壁を利用した壁面書庫や貴重書庫となっている。吹き抜け空間の大きさは圧巻。
(11)鷺城址と早坂山舘趾
(12)米沢羽山舘址
 
(13)川井舘址
 
(14)長手舘址
 
(15)堂森山舘址と善光寺
 
(16)野手倉伊達の墓(高畠町)
9代儀山政宗公の墓がある。明治37年に発見され、同年9月、伊達家により五百年祭が執行された。墓城には石垣が巡らされ松林の中にある。右に政宗の墓、左はその室、紀氏の墓である。
(17)志田舘址
(18)安久津八幡宮
永承6年(1045年)と寛治年間(1087年)、源義家が安倍一族追討の折に陣を敷き、その際に鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀ったと伝えられている。明応9年(1500年)13代尚宗によって社殿造成、天文5年(1536年)14代稙宗は本殿寄進を行い、17代政宗により社殿修理されるなど、東の八幡として伊達氏より厚く保護されてきた。
(19)高畑城址(高畠町)
承安年間(1171年〜)藤原秀衡のいとこ樋瓜五郎季衡の築城と伝えられる。天授6年(1380年)長井氏を滅ぼした伊達宗遠と9代政宗が置賜の本拠として修築したと伝えられている。
(20)資福寺址(高畠町)
弘安年中(1278~87年)長井氏3代時秀が領内領東西交流の中心である夏刈の地に、鎌倉建長寺の僧紹規を招じて建てた寺である。この地に伊達氏が夏刈城を築き、資福寺を帰依寺、学問寺として保護した。
(21)亀岡文殊(高畠町)
大同2年(807年)徳一上人によって開かれた。独眼竜政宗誕生に際し、母義姫は亀岡文殊堂の長海上人に湯殿山への男子誕生祈願を依頼。上人は祈願の証に幣束を持ち帰り、義姫の寝所の屋根に安置させた。すると義姫の夢枕に端夢が現れ、義姫は懐妊、政宗の誕生となった。政宗は秀吉の命により岩出山に国替えとなるが、その際に資福寺の鐘を亀岡文殊に寄進している。
(22)浜田舘址(=一本柳舘趾)(高畠町)
伊達氏の宿老、屋代郷惣成敗職浜田伊豆大和守の居館。浜田伊豆は置賜攻略の時代より伊達の家臣として代々奉公した武将。浜田舘は伊達氏による置賜攻略の本拠としての高畑城と結ぶ重要な位置にあった。
(23)二色根舘址(南陽市)
 
(24)宮沢城址(南陽市)
(25)岩部山舘址
(26)東正寺(=東昌寺)(南陽市)
臨済宗東昌寺は伊達五山の一の名刹。稙宗の13男大有康甫和尚(輝宗の伯父)が住職の時に奥州に来ていた京都大徳寺の僧で秀才の誉高い虎哉宗乙が5年間寓居した。政宗が誕生すると輝宗は三顧の礼を尽くして虎哉を資福寺に迎え、政宗の教育を託した。
(27)熊野大社
日本三熊野の一つ、宮内熊野大社。平城天皇の勅命による御再建から1200年を数える古社で東北の伊勢とも呼ばれ、1〜3月の春参宮、10・11月の秋参宮では伊勢神宮と宮内熊野大社飲みに伝わる太々神楽が奉納される。
(28)小松城趾(川西町)
鎌倉時代の創建とみられ、長井氏家臣の船山印旛守や伊達時代には大町氏、桑折氏、牧野氏が城主と務めた。元亀元年(1570年)伊達家の内乱、小松城の戦いが起きるなど伊達家の歴史の舞台となった。福島県桑折町の町名の由来となる桑折印旛守景長が居城した城でもある。伊達家の岩出山移封の際、廃止された。
(29)大塚城趾(川西町)
大塚城は、鎌倉時代に大塚親行によって築かれた。 戦国時代に城主大塚将監は、天文の乱に戦功があげている。子の宗頼は、天正19年に伊達政宗が岩出山城へと移封になると、これに従って移り、大塚城は廃城となった。
(30)原田城趾(川西町)
伊達家宿老原田氏の居城。伊達家の岩出山移封まで、米沢北郊の戦術的支城の役割を担っていた。最後の城主、原田左馬介宗時は18歳で家督を継ぎ、伊達政宗の軍事において顕著な戦功を挙げた。
(31)東陽寺(川西町)
文応元年(1260年)に創立。伊達家の重臣原田家代々の菩提寺であり、17代原田左馬介宗時が岩出山に移る天正19年(1591年)まで原田家の先祖の菩提を弔い、念持物など古い仏像を残している。当時の原田家代々の供養塔(九重塔)が風雪に耐え現存している。原田左馬介宗時は原田甲斐の祖父にあたる。
(32)諏訪神社(川西町)
信濃国で広く崇められた諏訪神社の分社としてこの地が出羽国に定められた時から早々に現在の地に奉られた。伊達政宗、上杉景勝始め代々武人・領主の崇敬厚く、社殿社領の寄進の記録が残っている。
(33)鮎貝城趾(白鷹町)
応永3年(1396年)、当地に配された藤原成宗が築いたのが始まり。成宗は地名に因み鮎貝氏を名乗り、以降6代に渡り城主を歴任。鮎貝氏は藤原氏の系統で藤原鎌足の11代後裔とされる藤原安親が当地に下向し土着すると国人領主として地位を固めた。天文の乱(1542〜1548)では伊達晴宗と対立するが、敗北後は伊達家の有力家臣として迎え入れられている。天正19年(1591年)伊達政宗が岩出山城に移封になると鮎貝氏も随行し鮎貝城は新たに会津黒川城に入封した蒲生氏郷の支配下に入った。慶長20年(1615年)に一国一城令により廃城。
(34)瑞龍院(白鷹町)
享徳2年(1453年)に伊達持宗(伊達家11代当主)が開基し物外禅師が開山したと伝えられる。文明17年(1485年)から朝廷の勅願所となり、国家鎮護や国難退敗などの祈祷が行われるようになり、境内には天皇など身分が高い人しか通れない「勅使門」が現存している。最盛期に寺運も隆盛し末寺五百ヵ寺を擁していたとされ、当地域第一の名刹でした。
(35)荒砥城趾(白鷹町)
(36)小桜城趾(長井市)
康平年間の前九年の役で安倍貞任娘卯の花姫に築かせたと伝えられている。室町時代から戦国時代には片倉氏の居城で、天文の乱や鮎貝氏攻めでは伊達氏の拠点となった。天正19年(1591年)、伊達政宗の岩出山城への移封に伴い、城主片倉景親も従って移り、小桜城は廃城となった。
(37)萩生城趾(飯豊町)
南北朝時代に国分正信によって築かれたと伝えられている。伊達宗遠・政宗が長井氏を攻めて置賜地方へ侵攻した時、嘉慶2年に政宗により長井庄萩生郷を与えられた。萩生国分氏は、萩生城を代々居城とした国人領主だった。天正19年(1591年)伊達政宗の岩出山城への移封に伴い、陸前柴田郡へと移り、廃城となった。
(38)椿城趾
(39)小国城趾
小国城は、出羽と越後の国境を守る伊達氏の城である。伝承では奥州藤原氏が一族の俊衡を配したとも言われる。室町時代中期には、置賜地方に進出した伊達政宗(儀山公)によって、粟生田備後守が配されたとされ、粟生田氏2代の後、上郡山氏3代が城主となった。豊臣秀吉の全国統一が成り、蒲生氏支配時代になると佐久間久右衛門が城代となり、1598年に上杉領となると奈良沢主殿助が城代となった。その後、城代制の下で城代は多くの変遷を経て、1692年に城代は御役屋将と改められた。明治3年に西条舎人秀興が御役屋将を免ぜられて、小国城はその歴史を終えた。